プライムタイムズ

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みんな貧乳よりも巨乳がお好き?

 桃から生まれた桃太郎は、お爺さんとお婆さんに大事に育てられ、立派に成長すると、お婆さんが作ってくれたきび団子を腰にぶら下げ、鬼ヶ島へと出発した。旅の途中で、犬、猿、キジが順番に現れてきび団子を欲しがり、桃太郎は、鬼ヶ島へ同行することを条件として、きび団子を分け与えた。犬、猿、キジの3匹は、桃太郎の家来となり、船で鬼ヶ島へと向かうのだ。犬は忠誠心を、猿は鬼ヶ島攻略のための優れた知略を、そしてキジは鬼ヶ島に攻め込むための勇気という武器を桃太郎に与えてくれた。鬼ヶ島では鬼が酒盛りの真っ最中であったため、猿の智謀による奇襲作戦をしかけた桃太郎と3匹の家来は、易々と陣地を乗っ取り、大勝利をおさめ、鬼がこれまでため込んでいた宝物を台車で引きながら村へと持ち帰り、村人の大歓声に迎えられながら凱旋したのだった。

 
 富、権力、名声といった話題で持ちきりのツイッターでは、嫉妬や妬みが渦のようにあとからあとから湧いてでて、いつもどこかで争いごとが発生している。名もない大衆が、著名人に食ってかかっては、周囲から瞬時に滅せられるときもあれば、著名人が群衆を小馬鹿にして炎上するケースもあり、様々な事例が存在する。最近は、伊藤春香(通称:はあちゅう)がオーナーを務める「はあちゅうサロン」の運営方法が槍玉にあげられていて、その制度システムが、ブラック企業よりもひどい奴隷制を敷いているとして叩かれている。最初に断っておくけれど、筆者は、この攻撃に加担するつもりもなければ、はあちゅうを擁護するつもりもない。ひとまず簡単にまとめると、これが問題になっているのは、いくつか理由がある。それは、はあちゅう本人が「お金を貰わないと仕事しない、はもう古い」と言ってるにも関わらず、「はあちゅうサロン」は、月額9800円の会費がかかることから、本人は報酬を受け取っているため矛盾が生じていること、また「クリエイターが活動を続けるためには、お金が絶対に必要」と明言しているにも関わらず、無報酬でサロン生に労働させている点、こんなところだろうか。どんな労働でも対価がなければ、争いごとになるのは当たり前で、桃太郎でいえば、きび団子が鬼退治の仕事に対する報酬にあたる。つまり優秀な頭脳を持つ猿、上空から奇襲作戦を見事に決めた傭兵のキジは、桃太郎のきび団子がなければ、一緒に鬼退治には向かわなかったはずだ。サロン生が、はあちゅうに「褒められること」が大いなる対価なんだと主張するなら何の文句もないのだけど。


 さて動物行動学者であるコンラート・ローレンツは、その著書で、同一種内で行われる攻撃は、それ自体は決して「悪」ではなくて、種を維持するための必要な行動であることを示した。自然の世界では、あらゆる場所で闘争が行われており、闘争の仕方も、闘争に使われる攻撃や防御のための武器も、実に高度に発達しており、それらが、そのときどきで種を守り、そして淘汰されてきた歴史の中で使用されたということは明らかだ。そしてクローズドな空間においては、人間特有の攻撃性が増すことがわかっている。本能的な他者への攻撃をなくすために、それを触発するための要因を取り除けばいいという発想もあるが、どうやらそれも難しいようだ。同一種内の攻撃は、相当期間せき止められると、その攻撃衝動は、それを解放する刺激を探し求める。つまり攻撃を引き起こすための刺激の閾値は、どんどん低下していく。例えば、戦争で捕虜になった人たちを収容した檻で、小さなグループを作って密集している男たちが、互いに相手しか頼るものがなく、しかも自分のグループ以外の他の人と話合うのを妨げられていた時、その小グループ間で争いごとがおき、お互いを襲うのだそうだ。

 生物は本来、同じ種の仲間に対する闘争の衝動があり、人間の場合、それが理性で抑制されている。理性で抑制されているからストレスが生じる。ではそのストレスを発散させるには何がいいのだろうか。その攻撃の矛先を無害な対象に向けるということが解決方法になって、「空き缶をふみつぶす」などの行動が有効だろうが、ローレンツはその衝動を抑えるためにはスポーツがいいのだという。ストレスをため込んだ人が、よく壁を殴って穴をあけたりするのを見聞きするけれど、ある意味では有効な手段なのだ。さらに困ったことに攻撃欲を持たない動物は友情を生み出す能力がないのだそうだ。つまり攻撃欲は、人間社会に欠かせない衝動ということになる。一番大切なことは、どうやってその刺激を解放するかということだ。


 筆者は、スポーツに代わるストレス解放手段として、女性のおっぱいをあげたい。巨乳はいつの時代も幅をきかせ、現代では女優やアイドルばかりでなく、女性アナウンサーのサイズにまで、その注目が集まるほど魅惑的な代物だ。欧米の知的エリートの社交の場では、政治、宗教の話はタブー視され、美術のトピックがよく選ばれている。そして美術の絵画では女性の裸婦像が多く描かれている。

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 これはルーカス・クラナッハの描いた裸婦像で、『ヴィーナスに困らされるクピト』だ。この小さい子供は、絵にいる愛と美の女神ヴィーナスの息子であり、父親は軍神マルスとされる。クピトは、ギリシャ神話の神で、ギリシャ名はエロス、ラテン名がクピト、そして英語名がキューピッドである。蜂の巣を取ろうとしたクピトが、ヴィーナスによって蜂に襲われている場面を描いている。当時ハチミツは大変貴重なもので、蜂蜜を手にする代償として、蜂の一刺しがあるということを示し、「人生の楽しみには痛みを伴う」という教訓を現したものだ。絵画芸術の発展は、15世紀のイタリアのルネサンス期から始まり、多くの裸身の女性たちがキャンパスに登場することになったが、それらの裸婦像はボリューム主義を基本としていた。ルーベンスレンブラント、近代に入ってからはルノワールなど、いかにも肉付きがよく、むっちりとしたボディに、豊満なおっぱいを描き、まさにそれこそが女性の美しさの象徴であった。そんな市民の常識に一石を投じたのが、ルーカス・クラナッハの描く裸婦像だ。クラナッハの女神は一様にスリムで、腰のくびれもしっかりと存在し、背は高いが必要以上の肉のたるみは描かれず、何よりも貧乳だ。だがそれでいて、12頭身はあろうかという白く細い肢体が放つエロスは、妖しくも強烈な輝きを放っている。クラナッハの描くキャンパスの背景の多くは、絶妙な暗がりが用意されており、ヴィーナスの白い美しい肌を際立たせている。モデルのような痩身長躯の艶めく肌の輝きは、たるんだ腹からは見ることができない。豊満な巨乳ばかりがエロティックなわけではない。絶妙な膨らみ、腰のくびれ、そして長い手足といった極限まで磨き上げられた肉体にはどこか妖しい魅力があり、現実を越えた幻想と美しさを人々に与えるのだ。
 

 筆者は、最近の巨乳ばかりがもてはやされる時代はどうかしていると感じている。よく考えてほしい。巨乳になればなるほど、どうしても「ぽっちゃり」せざるをえないではないか。その一方でモデルやアイドルなどは、周知のように痩せている。痩せている巨乳なんて、体の形とのバランスが合わないはずだ。筆者は、貧乳の美しさを感じずにはいられない。世の中、男性ばかりか女性まで巨乳の魅力にとらわれていて、豊胸手術などの美容整形がブームだけど、病院に向かうまえにもう一度考え直してほしい。

 SNSツールは、閉じられた空間で、人の攻撃本能を刺激する。そしてその本能から湧きでるストレスを、ぜひとも美術館に足を運び、裸婦像を鑑賞することで解放してみてはいかがだろうか。そのストレスを抑えきれずに絵に触れてしまうと、警備員からつまみ出されるから注意したほうがいい。

 来週はバレンタインデーのイベントがあり、多くの恋人たちは愛に包まれることだろう。ホテルの一室で、「クラナッハのヴィーナスみたいで綺麗だよ」ー、そんな言葉で相手を褒めてみてはいかがだろうか。その後に優しいキスが待っているか、ひっぱたかれるかどうかは、その人の価値観次第だろうけれど。

部屋を片付けると痩せられるし、稼げるようになる?

 「海外では太っていると出世できない」という言葉を一度は耳にしたことがあるかもしれない。その理由は、肥満が自己管理ができていない人物の象徴として扱われるため、そんな人間に部下の指導など不可能だからというものだ。遺伝的に太りやすい人がいるのも事実だけれど、太るには、様々な要因があって、炭水化物や糖分の過剰摂取などが考えられる。はるか昔から、人類にとって糖質はきわめて貴重だっただけでなく、魅惑の食物だった。これは人類がミツバチの巣から蜜を取っていた風景が、スペインの洞窟で発見され、さらにその後、果実を土器で煮た跡が見つかっていることから、果実が長期間にわたり保存されていたと解釈でき、いかに大事なものであったかがわかる。現代では、糖質の成分が多いハンバーガー、コンビニ弁当など、ファストフードが容易に手に入るようになり、アメリカでは、貧困層の肥満が大きな社会問題となっている。

 

 では日本ではどうなのだろうか。終戦当時、日本には限られた砂糖しかなく、一時期、配給制が取られていた。食料難の時代であったため、甘味は、非常に貴重な存在だったのだ。国民の需要に対して、配給される砂糖だけではとても補えないため、一時期人工甘味料がその代替物として使われていたが、安全性の面から使用禁止となった。やがて戦後の復興と共に、砂糖の消費量は飛躍的に増加し、1人あたりの年間消費量は、1973年には29キロまでになり、現在は20キロ程度に落ち着いている。高価な贅沢品であった砂糖が、現在では生活必需品となり、あらゆる食品に使用され、日本人の食生活を豊かなものにしてくれている。砂糖だけに留まらず、あらゆる貴重な食品は、いまでは嗜好品の一つに過ぎなくなり、飽食の時代となった現代おいて、食習慣は大きな健康面からも大きな関心ごとの一つであり、その様子は世帯間で異なっている。 

 

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 この図は、いま話題の厚生労働省の「平成26年国民健康・栄養調査」のデータから抜粋した、世帯所得と肥満の関係だ(このデータが改ざんされているかは知らないけれど)。このデータによると、男女ともに、世帯所得が低いほど、肥満の割合が多いことが読み取れ、そして男性のほうがその相関が顕著に表れている。この理由は、貧困層の世帯にとって、食事は「腹を満たすための生活の糧」という位置づけで、生きるために必要不可欠であるため、限られた経費で摂取カロリーを増やそうとするインセンティブが働くからだ。つまり炭水化物などを多く取ることの誘引となっている。富裕層にとって、食事は単なる栄養補給手段ではなく、人生における楽しみの一つになっていることだろう。いずれにせよ、日本においても、貧困層のほうが、富裕層よりも肥満率が高く、ある意味で「太っていると出世できない」と言えるかもしれない。昔は、肥満は裕福の証として存在し、ドラマ、コミックなどでも、私腹を肥やす悪者は、だらしなく太った人物が多く登場していた。そう考えると、いまの金持ちの悪者は、ホソマッチョとまではいかなくても、痩せ型として描かれるべきで、もうすでにそうなっているかもしれない。

 

 

 

 さて、日本でベストセラー本を世に送り出し、一世を風靡した「片付けコンサルタント」を自称する近藤麻里恵(通称:こんまり)は、そのビジネスの舞台をアメリカに移している。近藤は、アメリカでも一大センセーショナルを巻き起こし、その手法は、多くのメディアや雑誌に取り上げられ、ネットフリックスでリアル番組もスタートするほどの人気を呼んでいる。そうした人気の影響からか、片付けブームに乗った人たちによって、慈善団体に寄付される品が前年比で30%以上増加したというデータもあるようだ。

 

 整理されていない部屋で生活していると、ジャンクフードの過剰摂取やテレビを見る時間が増加するといったストレス対処行動に陥りやすくなるのだそうだ。さらに 無秩序な空間は、我々の脳にも影響を与えることが科学的な研究で証明されている。人間の脳は秩序を好むため、人間の認知力は消耗し、集中力は低下し、記憶力も減退するのだそうだ。たしかに筆者のまわりで仕事ができない人間の机は無残なことになっている。PCに保存されたフォルダーは、同じような名前が散乱し、どれを開いたらいいかわからないばかりか、そのフォルダーに保存された資料は、もはやそのフォルダーの名前と整合性が取れないし、なぜそこにあるのか本人ですら説明することさえもできない。ただ能力が低いからこうなってしまったのか、雑然とした空間がその人をその行動に走らせたのかは、まだ解明されていない(一生解明されないかもしれないけれど)

 

 モノを片付けることによって、生活空間に秩序が戻ると、集中力や生産性が向上することが研究によってわかっている。散らかった部屋は、ストレス指数を高め、不安や落ち込みといった情緒を狂わせる原因となる。2009年のアメリカの研究で、散らかった家に住んでいる母親のほうが、ストレスホルモンの指数が高かったようだ。これがもし本当ならば、親から子への虐待の軽減につながるかもしれない。

 

 さらに散らかった部屋と体に悪い食べ方が関連していることは、複数の研究で証明されているようだ。 ある実験では、乱れた空間で生活した被験者は、スナックを消費する量がふえ、整頓された場所で暮らす人よりも、クッキーを食べる量が2倍増加したらしい。他の研究でも、汚い部屋にいる人は、りんごよりもチョコレートバーを食べる確率は2倍になった。極度に汚い家で生活する人は、体重が平均より増える可能性が、77%高いのだそうだ。

 

 

 筆者は、常々モノを片付けられない人を見かけるたびに、不思議に思っていた。職場のデスクの下に無数に散乱した靴をそのままにする女性、山積みになった書類や書物をそのままにしている事務員、食べ終えたものを捨てないで部屋に置きっぱなしにする人、例をあげればきりがないが、そういう人たちは、自分で不幸に向かって走っている。片付けができない人は、自ら精神状態を乱し、健康状態を悪化させ、肥満の可能性を上げている。ジャンクフードをむさぼり、その体重をどんどん増加させ、もしかしたら社会的地位まで失わせているかもしれない。

 

これまでのデータが正しいならば、肥満の人は貧困ということになるばかりか、肥満の人の家は汚いということになる。筆者は、コミックなどでよく出てくるゲームオタクの姿をなんとなく連想してしまった。そして自分の腹を見つめながら、朝のジョギングを決意したところで締めくくりたいと思う。

 

 

 

 

 

 参考文献:

「こんまり」人気の深層──片づけは不眠や不安や肥満さえ癒す | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

 

 

 

 

 

果たしてグローバル人材になることは正しいことなのだろうか

 もうだいぶ前の話になるけれど、長野冬季オリンピックで、スピードスケート男子500メートルにおいて、清水宏保がオリンピック新記録を出して、日本のスケート競技至上、初めて金メダルを獲得したことは有名な話だ。当時、清水をはじめ、堀井学、そしてカナダのウォザー・スプーンが、その年のワールドカップで表彰台を独占していたことから、「3強」と呼ばれており、さらにはその記録が拮抗していたため、誰が優勝してもおかしくない状況であったことから、清水の優勝が決まった瞬間、日本中が歓喜に包まれた。結果は、清水が金メダル、ウォザー・スプーンが銀メダル、ケビン・オーバーランドが銅メダル、そして堀井学は13位に沈んだ。

 

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 堀井の惨敗は、清水の金メダルの影で、大きな驚きを持って各メディアで取り上げられた。なせ堀井は、優勝候補と言われながら、ここまでの大敗を喫してしまったのだろうか。実はこれにはいくつかの理由が隠されている。この時期、スピードスケート競技は、他の競技とは比較にならないほど、環境、道具、技術において、急激な変化が訪れていた。こうした状況の中、1人の日本人は、その変化に対応し、表彰台の頂きに立つことができた一方で、もう1人の世界的トップ選手は、無残に散った。そして堀井の夢は、4年後も叶わなかったのである。 

 

 まず競技をめぐる環境の変化とは、スケートリンクのことである。ときに雨や雪が降り、強風が吹くような屋外の天然リンクから、屋内施設にその競技場所が移された。屋根と壁によって天候の条件は関係なくなり、さらに一定の人数が滑るごとに製氷車がリンクを極限まで磨きあげる仕組みが導入された。また製氷技術の進歩によって、人工のリンクは極度の高速化を実現したのだ。こうした環境の整備によって、屋外での記録は瞬く間に塗り替えられ、当然のことながら、世界最高記録は、屋内リンクからしか誕生しなくなった。

 

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  次に道具の変化は、1998年に開催された長野五輪直前に起き、選手に大きな戸惑いを与えた。それはスラップスケートの誕生と、その使用が競技団体によって公式に認められたことだった。通常のスケート靴は、ブレードと靴が完全に固定され、滑っていても形状に変化はないが、スラップスケートとは、ブレードと靴に接する部分が2点あり、一方の足先部分は固定されているものの、もう一方が接合されていない特殊な靴のことをいう。従来のノーマルタイプと比較して、スラップスケートは、体重や姿勢の変化に柔軟に対応できるため、バランスが取りづらくなったものの、よりスピードが出しやすい仕組みになっている。これはスピードスケート競技界にとって、革命的な道具だった。スピードスケートは、スラップスケートの導入によって、新たな時代を迎えたのだ。いままで足首を固定して滑っていたものが、足首を自由に使えるため、より長い時間氷を押さえつけることができ、氷上をそれまでより早く移動できるようになったのだ。

 

 技術の変化は、まさにスラップスケートを活用するための技術の変化だ。筆者も含めて素人には理解できない部分もあるが、ゼロコンマ数秒のタイムを競う選手たちにとって、これまでのノーマル靴と滑り方が大きく変わるため、その対応がいかに重要だったかは想像に難くない。

 

  結果として、高速リンクとスラップスケート、そしてそれらの技術にいち早く対応した清水が金メダル、ウォザー・スプーンが銀メダル、対応の遅れた堀井が惨敗したのも納得できる。筆者は、当時のテレビの特集で、新しい靴に挑む清水、旧式靴を使って、滑る技術を最大限まで高めることを選択した堀井という対立構造を描いた番組を覚えている。そのときは当然ながら、どちらの選択が正しいのか、わからなかった。もっといえば、新しい靴に転倒を繰り返し、四苦八苦しながら奮闘する清水に分が悪いとさえ思ったものだ。職人肌の堀井は、とにかく自分の技術を極めたかったのだ。道具だけで全てが決まってたまるかー、という反骨心もあったのかもしれない。走る度に研ぎ澄まされていく感覚、足の指先まで神経を張り巡らせ、正確に氷に伝える。そんな世界で戦っていた堀井は、ノーマルスケートを捨て去ることを躊躇した。だがその躊躇が決定的な敗因となったのだった。

 

 堀井の苦悩は、長野の前のレースでその表情に表れていた。レースをしても勝てない日々が続き、科学的にも、自分の感覚的にも、スラップスケートのほうが全ての面で上回ることがわかったのだろう。結局、堀井もスラップスケートを使用することを決断したが、すでに他の選手が死に物狂いで技術を習得して、平均タイムが切りあがっていく中で、その決断はあまりにも遅すぎた。堀井は復活をかけた、次のソルトレイク五輪でも、500メートルに続き、1000メートルでも惨敗し、ついにその後メダルを掴むことができずに競技人生を終えた。

 

 

 近年多くの大学で、グローバル化を意識して、国際と名のつく学部が数多く創設されている。そんな中、千葉大学は、2020年度以降、入学する全ての学生を対象に、在学中に海外留学を実施することを原則として必修にすることを決めた。少子化が加速していることを背景として、海外で活躍できるグローバル人材の育成に力を入れていることを強調するかのように、このプロジェクトは始まったのだ。国立大学も、学生の囲い込みに必死で、常に有用な策を探している。この制度は国立の総合大学では、初めての取組であり、大きな注目を集めている。グローバリゼーションによって、世界が小さくなり、生産年齢人口が減少している日本で、将来の職場探しとして海外に目を向ける動きが起きることは、特段驚く話ではなく、千葉大学に続く学校は、これからますます出てくるだろう。

 

 この計画が実現すれば、23年度以降は約1万人弱の学部学生と、約3500人の大学院生が授業の必修科目として、1週間から2ヶ月程度、海外に留学することになるようだ。1週間程度でどれほど価値があるかどうかは、その人の能力次第であるが、2ヶ月もあれば、海外で生活するのに困らないほどの十分な語学力が得られるだろう。

 

 もともと千葉大は、国際教育について積極的で、16年4月に開設された国際教養学部では、卒業までに少なくとも1回の留学をすでに義務付けていた。留学しやすい環境整備を推進することで、華々しい就職先をアピールし、学生を引き込もうとする戦略なのだろう。17年度にはすでに約800人の学生を海外に送り出すことに成功しており、全国の国立大学の中でも上位の実績を誇っている。さらに驚くべきは、留学先の授業料は、大学側が負担するほか、渡航費や宿泊費用なども、一定の条件が整えば、学内外の奨学金制度を活用することが可能で、学生の負担は少なく抑えられる。ただ海外留学の必修化により、大学の財政を圧迫する恐れがあるため、20年度以降の授業料のアップも同時に検討しているようだ。先日会見した学長は、「国際教養学部を中心に成果をあげているグローバル人材育成戦略をさらに拡大したい、教職員一丸となって不退転の決意で取り組む」と語ったことからも、並々ならぬ決意を伺いしれる。

 

 かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が流行した高度経済成長期に、日本の大企業は、こぞって海外に進出し、海外の企業を買い漁ったり、支店を開設したりすることで、その存在感を世界に示した。そして日本の職員が、その企業の海外支店で働くことは栄転でもあり、キャリアアップにつながっていた。商社や銀行に勤める社員は、寝る間も惜しんで働き、優秀な成績を残した誇りを胸に、海外で大きな家を借りて、日本で勤務する社員が羨む生活を送っていた。ところが、バブルの崩壊とともに、そして世界経済の変化から、日本企業はその力を失い、海外支店ばかりか、本社も倒産することさえ起きる時代になった。現代は、国をあげた「グローバル人材育成」の掛け声のもと、海外企業の現地スタッフとして働けるような能力を得られるように、政府・大学が一丸となって若者を教育している。

 

 我々は、長きにわたって閉塞感を抱えていて、バブル時代のような楽園を夢みながら生活してきた。ここではないかと見つけた先が、海外の現地スタッフであった。たしかに海外で働けば、職はたくさんあるが、昔のように、その場所は日本企業の海外支店ではないため、片道切符で現地に赴かなければならないうえに、解雇規制のない海外では雇用も安定しない。さらに肝心の暮らしは、現地の給料で支給されるため、裕福とは到底言えるようなものではないかもしれない。「語学力を習得して、海外に飛び出せ」と無責任に叫ぶ大人は、海外が楽園のように感じているのかもしれないが、そこに行ってみても、暮らしはよくないばかりか、解雇されてしまうかもしれない。さらに途中で帰国することになったとしても、いまはもはや「海外で働いていた」という職歴は、それほど目新しいものではなくて、転職のときに実はあまり価値がない。

 

 もはや我々は、この低成長時代に適した、新しい希望のツールを見つけ出さなければいけない岐路に立っている。筆者はまだ、グローバル人材を目指すことが、清水になって、頑なに日本に残ることを選択することが堀井になるのか、いまのところその答えは見えていない。

 

 いったい楽園はどこにあるのだろう。疑問は深まるばかりだ。          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芸能人から解雇される日が来る?

 日本では、高齢化と少子化のダブルパンチにより、その生産年齢人口は、減少の一途をたどっている。そこで政府は、「一億総活躍社会」のキャッチフレーズのもと、女性の職場進出、高齢者の活用といった解決案を模索しており、いわゆる働き方改革に着手している。『マイレージ・マイライフ』は、ジョージクルーニー演じるライアン・ベンガムに焦点をあてた、企業で働くことについて、再考させられる映画である。ライアンは、人事コンサルタント会社で働いており、雇用主に代わって、レイオフや解雇を宣告することを生業とし、米国中の支店を飛び回っている。一年の大部分を出張に費やすライアンは、ほとんど自宅に戻らず、旅を楽しみながら、アメリカン航空至上7人目で、最年少の1000万マイル達成者となることを目標としている。ある日、野心的な若手社員のナタリー・キーナーは、社員が現地に赴き、対面して解雇を通達する方法から、テレビ電話によるレイオフに切り替えて、出張コストを削減するプログラムを推進する。ライアンは、このプログラムが非常に無機質であり、解雇される社員にとって、孤立したような感覚に陥る可能性があることを概念し、上司に対して、ナタリーは、解雇プロセスの実態や解雇される人々の扱いについて無知であると主張する。そこでライアンの上司は、ナタリーを教育させるために、ライアンの出張に動向させるのだ。ナタリーは、はじめての仕事において、マニュアルにそって解雇宣告を試みるが、1人はカメラの前で泣き出してしまったばかりか、それを収めることができず、また別の女性は、自殺をほのめかした。結局、その女性が本当に自殺してしまったことで、ライアンの上司は、ナタリーが推奨した遠隔解雇プログラムを中止し、今まで通り、現地に直接訪問し、対象社員に顔を突き合わせて解雇通知を実施する制度に戻すことを決めたのだった。

 
 イギリスの理論物理学者であったスティーブン・ホーキンスは、「完全な人工知能の開発は人類の終わりを意味するかもしれない、AIは独自に活動しはじめ、どんどんペースを上げながら自己改良していくだろう」という言葉を残して、この世を去った。『AI VS 教科書が読めない子供たち』は、人工知能と人間の関係を考えるうえで、大きな手がかりを教えてくれる著書である。書き手は、東大合格を目指すAIロボット「東ロボくん」の育ての親で、AIの可能性と限界、そして人間との共存関係を描いている。まず注目すべきは、スタートから7年の歳月を経て、東ロボくんが、大きな成長を遂げたということだ。2013年にはじめて受験した代々木ゼミナール「第一回全国センター模試」では、全国平均を大きく下回って、その偏差値は45だったものの、3年後の2016年に受験したセンター模試では、平均得点の437.8点を大幅に上回る525点を獲得し、偏差値も57.1まで上昇したというのだ。しかし一方で、AIの弱点は、依然として国語の試験であり、それはAIは読解力がないために文章の意味を理解しないから、自然言語を読みこなすことができないのだという。つまりこのAIが弱点とする分野で、これから先人類は戦っていけばいいー、という穏やかな結論で話は終わらない。そればかりか、我々の未来がそれほど明るくないことを突きつける。


 それは現代の中学生の多くが、「東ロボくん」より低い読解力しかないということが、全国読解力調査から浮かび上がってきたことだ。二つの文章の意味が同じかどうかを判定する問題で、中学生の正答率は57%に過ぎなかったようだ。これはつまり、当てずっぽうで選んだとしても達するであろう5割をわずかに上回っているだけということだ。中学生の3人に1人が、正しく文章を理解できていないにも関わらず、小学生からプログラミングや英語教育を導入することに価値があるのだろうかと疑問を抱かずにはいられない。もはやAIができる仕事は、これからどんどんAIに奪われていき、人間が職場を明け渡す日は近い。


 安部首相は、会見で「この国から非正規という言葉を一掃する」と高らかに発言した。その一方で、高度プロフェッショナル制度導入を目指し、グローバルスタンダードに合わせるように、高技能労働者と単純労働者という2つの枠組みに切り分けようとしている。制度そのものの概念は、高度な専門知識を有しており、一定水準以上の年収(1075万円以上の年収が想定)を得る労働者について、労働時間規制の対象から除外するということであるが、実態を考えていくと、将来的にこうなるだろう。日本の会社は、旧来から年功序列、終身雇用制度を採用し、「ジェネラリスト」を作るために、数年単位で部署移動するのが当たり前で、これはある意味で、高度プロフェッショナルな社員(スペシャリスト)を作ってこなかったと言える。上司や部下が、他部署からやってきて、専門的なスキルを有していないことは、当然のように起こりえるし、そうした効率性を度外視した制度は、終身雇用の中では、さほど問題にはならなかったのであろう。外資系企業出身の社員が、日本企業に転職した場合、既存の給与規定にそぐわないため、派遣社員のような形で期間契約をして、成果に応じて、収入が増減する採用システムになっているのもこれが理由だ。彼ら(高技能労働者)にとってのキャリアステップは、成果報酬が上がるかどうかということだけで、職種そのものが変わるわけではなく、野球選手などのプロスポーツ選手と同じようなものである。つまり、どこの企業に属しているかどうかは、正直あんまり関係ない。なかには会社名をとても気にする人もいるのだろうけれど。これまでの非正規、正規という枠組みから、高技能労働者と単純労働者に二分するというのであれば、労使制度そのものを見直す必要が出てくる。ただこれはそれほど目新しいものではなくて、日本以外の国では当たり前のように存在する。しかし日本でこの制度を導入するためには、海外と同じように解雇規制についても緩和していかないとならないことを意味している。つまり契約で約束した成果報酬を達成できない社員には、会社から強制的にでも辞めてもらわない限り、人件費ばっかりかかってしまって、会社としては、雇うメリットそのものが失われてしまうからだ。

 
 会社が大きくなると、扱う商品やサービスの幅が広がり、それに見合った人数が投入される。ハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターンの分野など、収益とコストに対する分析がなされ、言ってみれば、人を含めたポートフォリオが構築される。そうしたなかで、目標数値を達成できなくなったポートフォリオについては、商品やサービスの変更が加えられたり、人材が変更されたり、はたまた部門そのものが閉鎖されたりしながら、会社は運営される。こうした過程の中で生じるのがレイオフという処理で、通常の経済サイクルで起きることとなんら変わりはない。



 では会社がレイオフという意思決定をするとき、どのような人材が選択されてしまうのだろうか。これには無数の選択方法があるんだろうけれど、数字で成績が判定できない部分については、表のようなカテゴリーに分類できそうだ。普通に考えると、①-④番の順で解雇されそうだけど、実際は、④の「有能でコミュ力も高い人」が上司にとっては一番やっかいで、うっかりすると自分より仕事ができ、周囲からの人望も厚いために、将来的な自分の脅威となるため、選択されやすい。次は、①の「無能で、コミュ力も低い人」で、その理由としては、自ら考えて動こうとしないばかりか、コミュニケーション能力も低いため、部署内で孤立している可能性が高く、解雇という決定が周囲から賛同されやすいからだ。上の人間は、人を解雇をするとき、残る人材の意見や空気を気にするものなのだ。その次は、②の「無能だけど、コミュ力が高い人」で、それは仕事はできないけれど、様々な人とコミュケーションを図るため、上司にとって使い勝手が悪いからだ。最後は③の「有能だけど、コミュ力が低い人」で、上司にとって一番貴重な人材である。なぜなら有能であるが故に、与えられた仕事は完璧にこなすうえ、コミュニケーション能力が低いため、周囲からの評価は低く、給料やボーナスのコントロールがしやすく、上司にとっては安くこき使うことが可能だからだ。






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 筆者は結局AIが進んだ未来でも、このような形は変わらないのではないかと思う。上司の求めることを適切に「読解」し、ときに部署内で推進される自動化を止めるような案を提出して、雇用を守ることに勤め、ときに必要のない社員を解雇するために、ロボット化を上司と一緒に推進するような人が生き残るのかもしれない。その上司の仕事がロボットになってしまう、もしくは上司自身がロボットになってしまえば話は別だが、人間とは非効率で臆病な生き物なのだ。そして解雇の決定も、その人間がすることなのだから。


 さて金融機関では、日ごとに自動化が加速しており、株式業務ではその傾向が顕著になっている。こうしたことを背景として、取引方法をロータッチ執行、ハイタッチ執行とに分けて、サービスを提供することが一般的になっている。ロータッチ執行とは、証券会社のトレーダーが、運用会社の執行に関与しない取引形態を示しており、アルゴリズム取引などの電子取引を表している。それに対して、証券会社のトレーダーが関与する取引形態をハイタッチ執行と呼び、トレーダーに執行権を与えながら、自己ポジションでリスクを取るような取引を表す。ロータッチ取引においては、執行から決済までストレート・スルー・プロセッシングと呼ばれる、人の手を介さない形態が一般的で、ハイタッチ執行と比べて、コストが低い。昔のように、右手で顧客の電話を受けて、左手でトレーダーのプライスを聞くような業務は、確実に減少している。AIの普及によって、もはや高度プロフェッショナルの職すらも脅かされているということだ。もはや未来は、人間のいう高度プロフェッショナルという仕事は存在しないのかもしれない。

 ナタリーの進めた制度は、単に時代が間に合っていなかっただけであって、遅かれ早かれ、彼女の案は一般的になったのだろうし、もっと言えば、AIによって解雇通達される日もそう遠くないかもしれない。女性の部下にはイケメンのAIから、男性の部下には美女のAIから解雇させるといった方式が加速し、上司が特定のロボットを選択するような時代が訪れるかもしれない。

 乃木坂の握手会に行かずして、会社の上司から「白石麻衣」が部屋で待っているから来るようにと指示されたなら注意したほうがいい。

書評『天才を殺す凡人ー職場の人間関係に悩む、すべての人へ』

 「天才と狂人は紙一重」という慣用句があるが、これは天才が、アンバランスに偏った才能の持ち主であるが故に、凡人から見ると、その価値観も非常識に感じられるため、この言葉が生まれたものと言える。アインシュタインは、「20世紀最高の物理学者」と評され、それまでの物理学の認識を根本から変えるという偉業を成し遂げて、1921年ノーベル物理学賞を受賞した。その功績は死後も揺らぐものではなく、それを証明するように、彼の名前は様々な場所に残されている。ここで興味深いことは、アインシュタインは、光量子仮説にかかる業績によってノーベル賞を受賞したのであって、それより遥かに有名な相対性理論で受賞したわけではないことだ。その理由は、相対性理論が、当時の物理学を根底から変えてしまうほど革新的であったため、選考委員でさえも、検証が十分になされていないものに、どう評価していいか自信が持てなかったからだと言われている。天才はいつだって孤独な生き物なのだろう。

 

 その一方で、アインシュタインは、小学生のようにスペルを間違えることがままあり、生涯大文字の「R」を鏡文字で書いていたとされる逸話や、記憶することが苦手で、簡単な数字や記号が記憶できずに、「本やノートに書いてあることをどうして、覚えておかないといけないのか」と記者とのインタビューでやり返した話は有名な話だ。

 

 トーマス・エジソンは傑出した発明家として知られる一方で、稀代の変人としても知られている。小学生の頃、教師から「お前の頭は腐っている」、「頭が悪すぎる」といわれた話は広く知られており、さらに晩年は、「死者」と交信できる通信機の開発研究に没頭するあまり、開発中に火事をおこして、研究所を全焼させる不始末をおかしている。また、直流の送電方式を支持していたエジソンは、対立する交流方式の危険性を立証するために、遊園地のゾウを電気ショックで処刑する様子を収めた映画を公開するなど、その変人ぶりは度を越えていた。

 

 天才とは希少な存在であるがゆえに、その行動や発言は、一般的な価値観では理解されにくい。本書は、世の中を変革するようなイノベーションが、大企業で起きないのはなぜかーという問いに答えたもので、働く人を天才、秀才、凡人という3つのカテゴリーに分類して、類まれなる才能を持つ天才が、会社で殺される構造やメカニズムを説明する。本書における各々の定義として、天才は「独創的な考えや着眼点を持ち、人々が思いつかないようなプロセスで物事を進められる人」であり、秀才は「論理的に物事を考え、システムや数学、秩序を大事にし、堅実に物事を進められる人」、凡人は「感情やその場の空気を読み、相手の反応を予測しながら動ける人」とされる。さらに凡人は天才に憧れる一方で、天才が放つ革新的なアイデアを理解できなければ、排斥に傾きがちであり、それによって天才の創造性が潰されると説く。そのため画期的なイノベーションが起きるためには、天才に強く共感して、説明役や根回し役をかって出る人が必要なのだという。

 

 組織において、何かの議題を意思決定しなければいけないとき、一般的に多数決のシステムが採用される。しかし天才は多数決で行動の成否を決められたら、負けるケースが多いと本書は言う。それは凡人が創造性についていけず、正しく評価することができないからだ。経済サイクルでは、常に「創造的破壊」という期間が存在し、既存のシステムを壊しながら、新しいシステムが生まれる。この流れの中には、本書が言うところの、天才が創造し、秀才が再現化し、凡人がルーティン化するという流れが隠されているのだろう。つまり秀才が一般化して、世の中の受け入れやすい形にしてこそ、そして凡人がルーティン化してこそ、天才の価値が理解されるということだ。

 

 天才を殺す凡人の行動は、どのような分野でも起き、またどのような組織でも起こりえる。つまり大きな発明、発見を、凡人が理解できないあまりに、天才の創造性を無視してしまうということだ。企業組織とは、多くの人間がいて、そこにはヒエラルキーが存在する。天才がヒエラルキーの上位に位置していないことは当たり前のように起こりえるし、たとえ位置していたとしても、そのアイデアについていけない凡人たる部下が多数いるケースは無数にあるだろう。

 

 しかし、果たして天才についていく、または理解することはいつも正しいのだろうか。これには残念ながら「NO」と言わざるをえないことは歴史が教えてくれる。筆者は、時に天才は凡人に殺される必要があるように思う。ここで平成の世界を揺るがした経済事案である、リーマンショックを振り返ってみよう。リーマンショックが起きるまで、金融の規制緩和は異様なほど進んでいた。なぜなら市場は常に効率的であり、政府ができる限り介入しないほうがいいという考えが支配的になっていたからである。こうした環境下で、金融工学という学問を学んだ天才が、サブプライムローン証券化という複雑な商品を世に送り出した。サブプライムローンとは、低所得者層に対するローンのことであり、つまり通常のローン審査には通過できないような信用度の低い人向けのローンである。そして証券化商品とは、ローンやリースなど、将来一定の収益が見込める資産を裏付けとして発行される有価証券のことを言うが、金融工学の天才達は、こうした低所得者層のローンと高所得者層のローンをごちゃ混ぜにすることによって、リスクアセットをあたかも安全であるかのように設計したうえで、そうした商品に高い利回りが得られるように開発した。これはまさに世界が待ち望んでいた商品であった。なぜなら、世界的な経済成長の低下、そしてそれに伴う長期金利の低下によって、過去の高利回りを約束された人たちに支払う年金などの利回りに見合う商品が、存在しなかったからだ。

 

 こうしたことから、天才の発明した商品は、画期的な発明として金融というフレームワーク全体から評価された。そのため後続の秀才がその仕組みを再現化させ、高い格付けを与えることを後押しし、そして凡人がルーティン化することによって広く世の中に売り出されたのだ。しかしこうした需要の増大はバブルを引き起こし、住宅価格が下落すると、サブプライム層の返済延滞率が上昇して、住宅バブルの崩壊が起き、それと同時に、こうした金融商品の価値も一気に下がり、俗にいうサブプライムローン問題が起きて、リーマンブラザーズの倒産を発端として、多くの金融機関が危機に直面したのだ。

 

 現代に戻ると、画期的な発明として、ブロックチェーン技術があげられる。これはナカモト・サトシを名乗る人物によって投稿された論文に基づきビットコインの運用が開始されたことから始まる。ビットコインシステムは、コンピューターのネットワークにより運営され、その取引は、仲介者なしにユーザー間で直接に行われる。そしてその取引はブロックチェーンと呼ばれる公開分散台帳に記録されていく。これよってきわめて低いコストで、銀行などの既存の発行者なしに、ものの10分程度の待機によって決済を可能にするという今までのシステムでは考えられないほど急進的なものを生み出したのだ。しかしハッキングなどの問題も抱えていて、この発明が世界を変えるほど革新的なものであるか否かは、神のみぞ知ると言えるもので、時が解決してくれるのを待つしかない。

 

 現代の多くの人は、未来に不安を感じている。その理由は、我々が新たな時代に突入しているからだ。過去に例を見ないほどの低成長時代が到来しており、その経済モデルは、人類がいままで経験したことがない。 そうした中で、天才が創造したものは、既存のシステムを破壊するテクノロジーであり、それは秀才が再現することを躊躇するものだ。なぜならここから発生する創造的破壊は、単なる農業から工業へと進化した過去の過程とは異なり、もはやヒトの力を必要としないものだ。その創造性は、経済の生産性を大規模に向上させるものの、我々の職を大きく失わせる、ないしは変化させるものだ。

 

 筆者は大きな不安に押しつぶされそうになりながら、「ジュラシックパーク」を観ている。天才とはなんて罪深い生き物なのだ。それにしても恐竜との共存は、やっぱり難しいのかなぁ。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

組織のリーダーは怠け者が一番

  
 日本では、ますます少子高齢化が加速し、労働力不足が深刻な問題になっていることは、ここでことさら説明するまでもない周知の事実だ。こうしたことを背景に、安倍内閣は、外国人労働者の受け入れを拡大する入管法改正法案を閣議決定した。野党の大きな反発はあったものの、政府は国会で同法案を成立させ、2019年4月から施行させたい方向を示した。安倍内閣は、「本法案は、労働力の受け入れであって、移民政策ではない」として、反対意見をいなそうと必死に対応している。


 どんな物事でも、異なる考えを持つ人間が集まる限り、全会一致で決定できる事柄は限られている。「12人の怒れる男」は、1950年代に製作されたアメリカの映画であるが、陪審員制度の長所と短所を説明するものとして、様々な場面で引用される。法廷ものに分類されるサスペンス映画であり、密室劇の金字塔としても高く評価されている。さらに撮影のほとんどが、たった一つの部屋を中心に繰り広げられており、映画製作に大金を投入しなくても、映画は成功するということを証明した作品としても知られている。


 少し内容の説明を加えると、父親殺しの罪に問われた少年の裁判を基礎として、12人の陪審員が評決に達するまでの白熱した議論を描いている。法廷に提出された証拠や関係者の証言が、被告人である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半が、少年の有罪を確信していたところから物語は始まる。全会一致で有罪になると思われたところ、ただ一人、陪審員8番だけが少年の無罪を主張するのだ。彼は、他の陪審員たちに、固定観念に捉われずに、証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。陪審員8番の熱意と理路整然とした推理によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員達の心にも序所に変化が生じる。そして最後には、全員が「無罪」という評決をだして、少年の人生を救ったかのようにして物語は幕を閉じる。

 
 政治における民主主義は、現代の画期的な発明として、あらゆる国で広く使用されている。その対比として独裁政権が引き合いにだされるが、独裁者が暴走し、市民の安全や安心が脅かされた悲劇的な例は、歴史が教えてくれる。そのような独裁者の暴走を未然に防ぎ、より多くの意見を反映した形を体現する方法として、民主主義のシステムに一定の評価が可能であることに異論はないだろう。その一つとして、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルが、演説の中で、「民主主義は最悪の政治と言える。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」と語ったものが有名だ。

 この映画においても、民主主義の仕組みにおける正の側面にスポットライトが当てられ、少数派の意見を封殺することなく、物事を解決に導いていく様が描かれ、少数派の意見、そして議論そのものの大切さを視聴者にうったえかける。しかし、筆者はこの映画を何度も観ているが、回数を重ねるたびに疑問がわいてくる。物語の見所は、言うまでもなく、陪審員8番が、いくつかの目撃証言や証拠を、的確に分析し、証拠不十分で無罪であることを皆に証明するシーンであるが、どうもその論理があいまいなのだ。ここで、決定的な証拠を覆した例を2つほど紹介したい。

  • 凶器は、珍しい形の「飛び出し形ナイフ」で被害者の胸に振り下ろした形で刺さっていたこと
  • 少年が逮捕されるまでの空白の時間に、映画館で映画を観ていたと言うが、映画のタイトルを覚えておらず、少年のアリバイを裏付ける目撃者もいなかったこと

 ここで凶器に関しては、陪審員8番が、事前に少年の家の近くにある雑貨屋で、同じナイフを偶然発見して、その場で皆に見せることにより、希少性がないことを証明したが、それが必ずしも少年が犯人ではないとは言い切れないばかりか、そのナイフは、突き刺して使うものであり、上から振り下ろして使うものではないことから、被害者よりも身長の低く、ナイフの扱いに慣れた少年の犯行ではないとした証明は少々こじ付けが過ぎる。さらに映画に関しては、陪審員8番が、他の陪審員に対して、数日前に観た映画の記憶を思い出させて、少年とは異なり、ショック状態でもないにも関わらず、映画のタイトルを完璧に思い出せなかったことで、少年が思い出せないのは、ショック状態もあって、当然だとして証明してみせたが、普通数時間前に鑑賞した映画のことをそんなに簡単に忘れるだろうか。いずれにせよ、仮に犯人が少年だった場合、みすみす犯人を取り逃がしてしまうことになるため、有罪である可能性を排除しすぎた議論に疑問を覚えたのだ。

 さて、この無作為に集められたメンバーは、正しい判断を下せたと言えるのだろうか。

 組織やチームは人が作り出すもので、そのメンバーが重要であることは言うまでもない。ビジネスの現場でも民主主義のモデルは採用されていて、経営者の独善的な決定を退けることに一役かっている。そうではない会社も沢山あると思うけど。では民主主義は、ビジネスの世界で、いつでも最適な状態を作り出すと言えるのだろうか。組織のチーム構成のバランスが良い場合においては、その力を発揮する可能性があるというのが、解答になるかもしれない。それは優秀なメンバーが集合し、いつも正しい決断をできるチームに限定されるということだ。さらに、少数派の意見にまで耳を傾けることが、民主主義の基本的な概念であるため、ときに議論が白熱すると、決定までに多くの時間を費やす必要が生じ、効率が悪い。ハンス・フォン・ゼークトは、ドイツの軍人で、軍の最高実力者として名を馳せた人物である。その中で、兵士を4つのマトリックスに整理して組織体制を作ったことは、有名な話だ。


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 ゼークトは①番の「怠け者だけど優秀」な人物を、組織上でリーダーになるべき人物として最適であるとした。その理由は、有能であるがゆえに、物事の是非を決定することを可能にし、そして怠け者であるがゆえに、他人に作業を任せることができるからというものだ。②番の「勤勉で優秀」な人物は、物事を判断することができるが、勤勉であるがゆえに、他人に作業を任せることができないために、組織のリーダーになるよりも、参謀として補佐する立場が適当であるとした。③番の「バカで怠け者」な人物は、自分で判断できないし、自ら動こうともしないため、命ぜられたことをそのまま遂行する兵隊的な立場に適任であるとした。最後に④番の「勤勉なバカ」な人物は、自分で適切な判断もできないのに、勝手に動きまわるため、組織に余計な混乱を呼び、一番危険なタイプであるとした。

 このマトリックスは、会社組織に当てはめてみても、そのまま活用できて、④番のタイプは一番最悪の社員だ。リーダーの意向も考えずに勝手に業務を遂行し、ミスを犯し、それを認識できる能力さえもないために、組織を崩壊に導く。そして、リーダーは、その尻拭いに追われるために、本来組織のためにやるべき業務が何も進まない。これはまさに恐怖としか言いようがない。


 では、勤勉で優秀な社員ばかりのチームは最強なのだろうか。勤勉で優秀な社員は、力を合わせて多くの業務改善案を提出し、あっという間に実行に移してしまうだろう。いままで、1日掛かっていたものが、一時間で完了するようなことも達成してしまうかもしれない。業務効率化を推し進めたことで、会社は業績があがり、その功績によって社員の給料も大幅にあがる。とは現実の世界では起こりえず、それが理想論であることは誰もがわかることだろう。実際は、この業務効率化によって、会社はチームの人員削減に舵をとり、少なくなったチームは疲弊し、給料はまったく上がらないかもしれない。つまり、会社組織でも、スペックの高い怠け者が一番得をするし、賢い選択ということになる。



 いずれにせよ筆者は、4番のような人物が現れると、頭がおかしくなるほど苦しくなる。どのように対処していいかわからないばかりか、本人はまったく悪気もなく、そして新たな仕事を作り出すからだ。怠け者はつらいよ。トホホ。

 

やっぱり社蓄って素晴らしい

 イナゴは、環境によってその姿を変化させ、営みをがらりと変えるという点で、他のバッタ類と区別される。緑色で覆われた体は茶色っぽくなり、羽は巨大化し、行動範囲がずっと広がっていき、やがて集団行動を始めて、草木を食べつくすのだ。広大な土地を有する中国では、歴史的にこうした被害を「蝗害」と呼び、人々から恐れられてきた。大規模な大雨や干ばつが起こると、バッタの大量発生によって農作物を食い荒らされ、農村に暮らす人を苦しめてきたのだ。この種類のバッタは、通常は普通のバッタと同じように、単独で暮らしているが、近くに仲間が増えてくると、急に行動様式を豹変させるのである。それは仲間が接近することで刺激が与えられ、神経伝達物質であるセロトニンが生産されることによって起きる。セロトニンは、イナゴの脳内を刺激し、行動を活発化させ、仲間を集めるようになる。結果、また近くのイナゴが刺激されることによって、セロトニンが生産される。こうして連鎖反応が生じ、しばらくすると、辺りにいるイナゴがすべて互いに仲間を求めるようになるのだ。最初は地上を進み、のちには空中を飛んで、そうしながら他のイナゴを次々と集めて、大きな群れを作り、最終的には1000億匹ものイナゴが100平方キロメートル以上に渡って広がり、それぞれが二カ月あまりの一生のうちに、毎日自分の体重ほどの餌を食べるのである。イナゴの群れを作り出しているエネルギーの一つは、自分が「食べられたくない」という欲求であり、一定の距離を保ちながら必死に前を行くイナゴを追いかけているのだ。

 

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  さて、2010年あたりから、ノマドワーカーという働き方が注目を浴びるようになったことは記憶に新しい。ノマドワーカーとは、いわゆる会社勤めとは異なり、タブレット端末一つで、スターバックスなど、オフィス以外の様々な場所で働く人々のことをさすが、この言葉が一般的になったのは、ノマドワーカーの先駆者と評された安藤美冬の活動が知られるようになり、彼女がブログの収入だけで生活するようになった経緯が書かれた「ノマドワーカーという生き方」という本が出版された2012年頃に本格化した。会社勤めの人間たちは、日々会社のために馬車馬のように働き、仕事後には、居酒屋で上司から叱咤激励を受け、さらには聞きたくもない上司のカラオケに付き合わされながら、帰りの電車で眠たい目をこすり、この本を読んでノマドワーカーを目指したー、かどうかはわからないけれど、社畜とは異なる一つの働き方の在り方として広く知れ渡った。

 

 日本FP協会が毎年調査する小学生の「将来なりたい職業」2017年度の調査では「ユーチューバー」が男子6位にランクインした。これも広義の意味でノマドワーカーに含まれるかどうか定かではないが、少なくとも会社勤めとは異なるネットビジネスの一環と言えるだろう。彼らの収入源は、主に広告収入であり、1再生あたり、0.1円くらいが相場のようである。「ユーチューブ」がブームになると、素人がこぞって参入し、既存のテレビ番組に飽きた若年層を中心に広がった。これはインターネットの普及により、メディアのあり方が変わったということだけではなく、昨今叫ばれているコンプライアンス順守によって、テレビ番組が、より保守的でつまらなくなっていることを原因として、その隙間を埋めるように、人気を博したのかもしれない。筆者は、過激な作品や、素人が部屋の中でごちゃごちゃしながら撮影している作品に何の面白みも感じないけれど、とにかく多くの人を惹きつけていることは事実である。

 

  しかし近年、参入者が増えるのと同時に、視聴者に飽きられないために、一部の配信者は、再生数を稼ぎ出すために、より内容をアグレッシブに、そして危険なものにしてきた。それと同時に、若い世代をますます惹きつけ、テレビとは違う「面白さ」を提供してきた。そんな中で、有名な配信者のアカウントが停止される事件が起きた。これはちょっとした話題になって、配信者自身がコメントを出すまでの事態になった。今回のアカウント停止は、ユーチューブのガイドラインの変更が主な原因だ。ユーチューブは、16日、重大な被害を招く恐れのある、有害で危険がコンテンツを禁じる方針を示した。その配信者は以前、体に影響を及ぼすような動画を投稿しており、規約違反に抵触していたようである。ユーチューブ社からガイドライン違反の警告を3回受けると、自動的にアカウント停止になるらしい。そうした中でその配信者は、次のような警鐘を鳴らした。「ユーチューブの規制が厳しくなる中、普通にやっているだけでは大物になれないし、ぼくたちに勝つこともありえないと思う。その意味でもう新たな大物は生まれないと思うし、広告もいずれ撤退する。向こう2年ほどでビジネスは衰退する。絶対にならないほうがいい」と明かしたのだ。

 

 人は皆、他人の成功を見て、まねするようにその場所に集まっていく。そうした群れは、一つの方向を目指し、大きなうねりとなって新しいビジネスを創造する。その背景となる理由は「一攫千金という夢」なのだと思うけれど、その行動によって新陳代謝が促され、新たな価値が形成され、やがて規制が作られるという通常の経済サイクルでよく見られる現象だ。これは同時に、多くの人が凌ぎを削る世界で戦っても、効率が悪いことを我々に教えてくれる。実際すでにそのフィールドで勝っている人は、新規参入者より遥かに前を走っていて、よほどの才能がなければ、その前にでることは難しい。努力やチャレンジというものは、誰もやっていないような分野でやることこそ、価値があるのだ。

 

 現代は、働き方も画一的ではなくなってきて、大企業に就職できれば一生安泰というわけではなくなった。若い人は、様々な可能性があるなかで、徐々に会社のために働くということに価値観を見出せない人が増えてきている。そのなかで誕生したものが、ノマドワーカーであり、ユーチューバーなのであろう。さらに働き方改革などが進む中で、命を削って深夜まで会社に残って、仕事をするような時代ではなくなった。 

 

 では会社勤めは選択肢からはずしたほうがいいのだろうか。もちろん個人で自由に生きることは素晴らしいことで、それが可能なのであれば、それを目指すことに何の疑問もない。でも筆者は、個人で生きるという生き方はリスクが高いということを大人がアドバイスしてあげるべきなんではないかと思う。さらに、みんなが一斉に同じ場所を目指すようになると、当然ながら競争は激しくなる。つまり、先頭のイナゴは、潤沢に草木が用意されているけれど、後ろになればなるほど、その残された食物は少なくなっていく。そう考えていくと、希少価値が高いものを選択したほうがいいことは、どの分野でも同じことだ。そうしたわけで、ユーチューバーのようなネットビジネスを手がける人が脚光を浴びて、大成功を収めたのだ。そういう視点で考えていくと、いま世の中で希少価値が高いのは、逆に社畜ということになる。昔のように転職に対して、負のイメージがなくなった現代では、選んだ会社が嫌になったらいつでもやめられる。しかも社蓄の生き方は、世の中から守られるようになってきている。それは長時間労働に対して、会社の厳しい監視や、世論の批判があるため、昔と比較して、相対的に働きやすくなってきているのは間違いない。これは労働者としての権利を最大限に生かすことができるだけでなく、給料をマキシママイズするチャンスを秘めていることを示している。

 

 セロトニンの分泌を促されて、先に存在するかもわからない「大金」を目指して一緒に飛び立つのではなくて、そこで一度立ち止まり、目の前の草木をむさぼり食べたほうがよかったりする。そんなイナゴが求められているのだと思う。  最近、自分の背中が黒っぽくなってきて、まさかこれはセロトニンに影響されてきたかと思っていたら、単なるゴルフ焼けだった。

 

 なんか楽して儲けられる方法ないかなぁ。