プライムタイムズ

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みんな貧乳よりも巨乳がお好き?

 桃から生まれた桃太郎は、お爺さんとお婆さんに大事に育てられ、立派に成長すると、お婆さんが作ってくれたきび団子を腰にぶら下げ、鬼ヶ島へと出発した。旅の途中で、犬、猿、キジが順番に現れてきび団子を欲しがり、桃太郎は、鬼ヶ島へ同行することを条件として、きび団子を分け与えた。犬、猿、キジの3匹は、桃太郎の家来となり、船で鬼ヶ島へと向かうのだ。犬は忠誠心を、猿は鬼ヶ島攻略のための優れた知略を、そしてキジは鬼ヶ島に攻め込むための勇気という武器を桃太郎に与えてくれた。鬼ヶ島では鬼が酒盛りの真っ最中であったため、猿の智謀による奇襲作戦をしかけた桃太郎と3匹の家来は、易々と陣地を乗っ取り、大勝利をおさめ、鬼がこれまでため込んでいた宝物を台車で引きながら村へと持ち帰り、村人の大歓声に迎えられながら凱旋したのだった。

 
 富、権力、名声といった話題で持ちきりのツイッターでは、嫉妬や妬みが渦のようにあとからあとから湧いてでて、いつもどこかで争いごとが発生している。名もない大衆が、著名人に食ってかかっては、周囲から瞬時に滅せられるときもあれば、著名人が群衆を小馬鹿にして炎上するケースもあり、様々な事例が存在する。最近は、伊藤春香(通称:はあちゅう)がオーナーを務める「はあちゅうサロン」の運営方法が槍玉にあげられていて、その制度システムが、ブラック企業よりもひどい奴隷制を敷いているとして叩かれている。最初に断っておくけれど、筆者は、この攻撃に加担するつもりもなければ、はあちゅうを擁護するつもりもない。ひとまず簡単にまとめると、これが問題になっているのは、いくつか理由がある。それは、はあちゅう本人が「お金を貰わないと仕事しない、はもう古い」と言ってるにも関わらず、「はあちゅうサロン」は、月額9800円の会費がかかることから、本人は報酬を受け取っているため矛盾が生じていること、また「クリエイターが活動を続けるためには、お金が絶対に必要」と明言しているにも関わらず、無報酬でサロン生に労働させている点、こんなところだろうか。どんな労働でも対価がなければ、争いごとになるのは当たり前で、桃太郎でいえば、きび団子が鬼退治の仕事に対する報酬にあたる。つまり優秀な頭脳を持つ猿、上空から奇襲作戦を見事に決めた傭兵のキジは、桃太郎のきび団子がなければ、一緒に鬼退治には向かわなかったはずだ。サロン生が、はあちゅうに「褒められること」が大いなる対価なんだと主張するなら何の文句もないのだけど。


 さて動物行動学者であるコンラート・ローレンツは、その著書で、同一種内で行われる攻撃は、それ自体は決して「悪」ではなくて、種を維持するための必要な行動であることを示した。自然の世界では、あらゆる場所で闘争が行われており、闘争の仕方も、闘争に使われる攻撃や防御のための武器も、実に高度に発達しており、それらが、そのときどきで種を守り、そして淘汰されてきた歴史の中で使用されたということは明らかだ。そしてクローズドな空間においては、人間特有の攻撃性が増すことがわかっている。本能的な他者への攻撃をなくすために、それを触発するための要因を取り除けばいいという発想もあるが、どうやらそれも難しいようだ。同一種内の攻撃は、相当期間せき止められると、その攻撃衝動は、それを解放する刺激を探し求める。つまり攻撃を引き起こすための刺激の閾値は、どんどん低下していく。例えば、戦争で捕虜になった人たちを収容した檻で、小さなグループを作って密集している男たちが、互いに相手しか頼るものがなく、しかも自分のグループ以外の他の人と話合うのを妨げられていた時、その小グループ間で争いごとがおき、お互いを襲うのだそうだ。

 生物は本来、同じ種の仲間に対する闘争の衝動があり、人間の場合、それが理性で抑制されている。理性で抑制されているからストレスが生じる。ではそのストレスを発散させるには何がいいのだろうか。その攻撃の矛先を無害な対象に向けるということが解決方法になって、「空き缶をふみつぶす」などの行動が有効だろうが、ローレンツはその衝動を抑えるためにはスポーツがいいのだという。ストレスをため込んだ人が、よく壁を殴って穴をあけたりするのを見聞きするけれど、ある意味では有効な手段なのだ。さらに困ったことに攻撃欲を持たない動物は友情を生み出す能力がないのだそうだ。つまり攻撃欲は、人間社会に欠かせない衝動ということになる。一番大切なことは、どうやってその刺激を解放するかということだ。


 筆者は、スポーツに代わるストレス解放手段として、女性のおっぱいをあげたい。巨乳はいつの時代も幅をきかせ、現代では女優やアイドルばかりでなく、女性アナウンサーのサイズにまで、その注目が集まるほど魅惑的な代物だ。欧米の知的エリートの社交の場では、政治、宗教の話はタブー視され、美術のトピックがよく選ばれている。そして美術の絵画では女性の裸婦像が多く描かれている。

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 これはルーカス・クラナッハの描いた裸婦像で、『ヴィーナスに困らされるクピト』だ。この小さい子供は、絵にいる愛と美の女神ヴィーナスの息子であり、父親は軍神マルスとされる。クピトは、ギリシャ神話の神で、ギリシャ名はエロス、ラテン名がクピト、そして英語名がキューピッドである。蜂の巣を取ろうとしたクピトが、ヴィーナスによって蜂に襲われている場面を描いている。当時ハチミツは大変貴重なもので、蜂蜜を手にする代償として、蜂の一刺しがあるということを示し、「人生の楽しみには痛みを伴う」という教訓を現したものだ。絵画芸術の発展は、15世紀のイタリアのルネサンス期から始まり、多くの裸身の女性たちがキャンパスに登場することになったが、それらの裸婦像はボリューム主義を基本としていた。ルーベンスレンブラント、近代に入ってからはルノワールなど、いかにも肉付きがよく、むっちりとしたボディに、豊満なおっぱいを描き、まさにそれこそが女性の美しさの象徴であった。そんな市民の常識に一石を投じたのが、ルーカス・クラナッハの描く裸婦像だ。クラナッハの女神は一様にスリムで、腰のくびれもしっかりと存在し、背は高いが必要以上の肉のたるみは描かれず、何よりも貧乳だ。だがそれでいて、12頭身はあろうかという白く細い肢体が放つエロスは、妖しくも強烈な輝きを放っている。クラナッハの描くキャンパスの背景の多くは、絶妙な暗がりが用意されており、ヴィーナスの白い美しい肌を際立たせている。モデルのような痩身長躯の艶めく肌の輝きは、たるんだ腹からは見ることができない。豊満な巨乳ばかりがエロティックなわけではない。絶妙な膨らみ、腰のくびれ、そして長い手足といった極限まで磨き上げられた肉体にはどこか妖しい魅力があり、現実を越えた幻想と美しさを人々に与えるのだ。
 

 筆者は、最近の巨乳ばかりがもてはやされる時代はどうかしていると感じている。よく考えてほしい。巨乳になればなるほど、どうしても「ぽっちゃり」せざるをえないではないか。その一方でモデルやアイドルなどは、周知のように痩せている。痩せている巨乳なんて、体の形とのバランスが合わないはずだ。筆者は、貧乳の美しさを感じずにはいられない。世の中、男性ばかりか女性まで巨乳の魅力にとらわれていて、豊胸手術などの美容整形がブームだけど、病院に向かうまえにもう一度考え直してほしい。

 SNSツールは、閉じられた空間で、人の攻撃本能を刺激する。そしてその本能から湧きでるストレスを、ぜひとも美術館に足を運び、裸婦像を鑑賞することで解放してみてはいかがだろうか。そのストレスを抑えきれずに絵に触れてしまうと、警備員からつまみ出されるから注意したほうがいい。

 来週はバレンタインデーのイベントがあり、多くの恋人たちは愛に包まれることだろう。ホテルの一室で、「クラナッハのヴィーナスみたいで綺麗だよ」ー、そんな言葉で相手を褒めてみてはいかがだろうか。その後に優しいキスが待っているか、ひっぱたかれるかどうかは、その人の価値観次第だろうけれど。