プライムタイムズ

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やっぱり出世はしたほうがいい

 2019年1月16日、19年ぶりに誕生した日本出身力士の横綱稀勢の里が引退した。引退会見において、「土俵人生において、一片の悔いもない」と一言一言紡ぐように語った様は、人々に感動を与えた。筆者にとって何よりも印象的だったのは、故人の鳴戸親方から「横綱は見える景色が違う」と教えられていたというが、会見で、「先代の見ていた景色はまだ見えてないです」と涙を拭いながら言葉を絞り出したシーンである。

 

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 稀勢の里横綱になるまでの道のりは、長く険しいものであった。先代の親方から受け継いだガチンコの精神で、厳しい稽古に臨み、愚直なまでの真面目さで、ひとつひとつの取組に全力であたっていた。土俵上で馴れ合いにならないように、力士に友達は作らないと公言する不器用さとひた向きさが、彼の肉体と精神を育て上げたのかもしれない。そのかいあってか、2010年には、白鵬の連勝を63で止め、2013年には、43連勝中であった白鵬を寄倒しで破るというような大一番を演出し、大きな注目を浴びた。3度の綱取り挑戦の末、悲願の優勝をかざり、優勝後のインタビューで、「ずいぶん長くなりましたけど。いろいろな人の支えがあって、ここまで来られたと思います」と涙を堪えながら必死に言葉を絞り出し、30才を越えた遅咲きの横綱が誕生した。

 

 ただ横綱になってからは、そのガチンコ精神と不器用さが災いしたのか否かは定かではないが、上位陣に包囲網を築かれがちで、ケガに苦しみ、その持ち前の強さを発揮できず、勝率は5割程度となってしまった。世間とはわがままなもので、横綱になったときの拍手喝采は影をひそめ、手のひらを返すように強いバッシングを彼に与え続けた。しかしそんなときでさえも、彼は昔の古い力士像を体現するかのように、寡黙に目の前の取組に挑み、自分を見失うことはなかった。苦難の道のりのなかで、「横綱の見える景色」を目指して、ただただひた向きに相撲道と向き合っていたに違いない。

 

 

「24時間戦えますか?」これはバブル期に一世を風靡したCMのワンフレーズであるが、経済が右肩上がりに伸びて、働けば働くほど暮らしが良くなる時代の象徴ともいえる言葉であり、自身の能力を研磨し、上の高みを目指して奮闘するビジネスマンに向けられたものであった。当時のサラリーマンも昇進して、上にいけばいくほど、その「見える景色の違い」を感じながら、会社組織で日々戦い、その困難さと責任の重さに翻弄されながら過ごしていたのだろう。会社でがむしゃらに働き、夜の街にくりだしてディスコで踊る。そんなことが現実に存在した時代であって、そうした社員のおかげで、大企業は、海外展開を本格化させ、日本企業のプレゼンスを向上させることができたのだ。

 

 しかし平成元年の12月29日に3万8915円の最高値を更新した日経平均株価は、その後下落に転じ、バブル景気は終焉を迎える。こうした時代の変遷とともに、人の働き方も徐々に変化してきていることを、ことさら説明するまでもないだろう。ただそうした変化を数値で示すかのように、先日厚生労働省が興味深いデータを「労働経済白書」に公表した。これによると、管理職になっていない会社員の6割は、管理職になりたくないと考えているらしい。調査は、役職についていない社員らに絞って行われ、昇進への考えを聞き、「管理職以上に昇進したいと思わない」が61.1%で、「管理職以上に昇進したい」は38.9%という結果になったそうである。昇進を望まない理由は、「責任が重くなるから」が71.3%と最大であったようだ。

 

 この結果が意味するところは、現代の社員は、マネジメント職よりも専門性を追求したい、管理職にならずに一兵卒として働きたいと希望する人が増加していることを表しているのだろう。筆者は、この結果に何となく違和感を覚えた。なぜなら会社から決められた仕事を、決められた時間だけ働くというビジネススタイルは、一見すると、自由で、自立したようにみえるが、会社からすれば、そうした労働者に特異性はなく、いつでも替えのきく安価な部品のような存在に過ぎないと考えるからだ。

 

  『課長島耕作』は、団塊の世代のサラリーマン像をリアルに描写したコミックだ。島耕作の勤める会社は、パナソニックをモデルにした大手電気メーカー「初芝電器産業」である。島は揺れ動く社内での派閥争いの動向に振りまわされながら、自分の信念を曲げず、「昇進に興味はない」というスタンスを貫くが、降って湧くような幸運が次から次へと巻き起こり、ついには社長にまで昇進し、現在は会長職を担っている。あまりにも女性関係を描写するシーンが多くあり、また島の家庭も崩壊しており、さらに出世の影には、必ずと言っていいほど、島と性的な関係を結んだ女性の手助けがあるため、ちょっと人間的にはどうなんだろうと疑問を抱かざるをえないばかりか、本線を見失うことも多いのだけど、主人公は、「出世を目指さずに、偉くなった人物」と言えるだろう。ただ島自身は、恋愛よりも仕事に重きをおき、さらに物語に登場する同僚やら上司やらのほとんどは、何よりも出世を目指し、仕事がトッププライオリティとなっている人物として描かれている。さらにほぼ全員がどういうわけか女好きという一貫性もありながら。

 

 筆者も新人として会社に入社したとき、将来は給料をそこそこもらえて、一生プレイヤーでいることができればそれでいい、そして一流のプレイヤーこそが会社をリードしていく人材だー、もっといえば、それこそがクールで洗練された生き方なのだと勘違いしていた。

 

 会社組織において、一つステップがあがるごとに、入ってくる情報量は格段にあがる。会社で何が起きていて、次に何が起きるのか。そんな話が一スタッフとは異なるレベルで日々入ってくる。どんな物事においても、情報が必要であることは言うまでもない。情報が多ければ多いほど、次に起こるであろう物事への予測を可能にし、逆に情報が入ってこないということは、誤った行動をしてしまうリスクをあげる。直面した問題においても、予測の範囲の制限が影響して、選択した行動が不利に作用する可能性をあげる。自分の見えている世界だけで生きていくことは、自由なようでいて、実に不安定なものだ。自分の業務が何に紐づいていて、どれほど価値のあることなのか分からないことは、不幸でしかない。戦争時代の情報操作がいい例で、マスメディアに情報をコントロールされて、自国が優位に立っているという情報しかなく、街は焼け野原になっているにも関わらず、最後まで勝利を疑わなかった民衆の悲しさと同じようなものだ。もちろん、どのステップにいても、単なる歯車に過ぎず、そんな自分を上層部はコストカットの対象にしているのかもしれないのだけれど。

 

 そしてさらに上にいけば、そこにはまた違う世界があって、会社を動かす立場になればなるほど当然ながら責任は重くなっていくだろう。そして「見える景色」も変わっていくに違いない。まあそれが魅力的なのかどうかは知らないけれど。稀勢の里の話に戻すと、横綱の景色がどんな景色なのかは、筆者にはまったく分からないけれど、先代はそういうことが言いたかったんじゃないかと思う。つまり弟子を叱咤激励し、角界をリードしていく。そうすることで、多くのファンを魅了し、責任の重さ以上の達成感を覚えるときがやってくるということを伝えたかったのではないだろうか。そんな気がしてならない。稀勢の里に「横綱から見える景色」を見せてあげたかったとおこがましいながら思ってしまう。

 

 ちょっと前置きが長くなったけど、そういうわけで、どうせ働かなくてはならないのであれば、出世を意識して、一社員で「見える景色」とは違う景色を目指したほうがいい。なんていうちょっと何の面白みもない、当たり前のような結論でしめくくりたいと思う。出世を目指すというと、あまり聞こえは良くないけれど、これからテクノロジーの進化は、待ったなしで起こる。生き残る人材というのは、そのテクノロジーを使って、どの分野で効率化を図れるのか、逆にどの分野では相性が悪いのかといったことを分析し、判断できる人だけだ。そういう知性と判断力をもった人材だけがこの厳しい世界で生存できるということを、皆うすうす感付いていると思う。

 

 現実の世界は、島耕作のように、あらゆる人にもてまくって、幸運が次から次へと起こり、そして女性がいつでも助けてくれるー、そんな甘い世界ではない。筆者もそんな社会人を憧れたけど、少なくとも自分の目の前には訪れていない。

 

  宝くじでも当たらないかなぁ。そうすれば引退できるのに。そんなことを夢みながら缶ビールを飲んでいる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上司と部下の関係について考えてみた

 京都の冬景色は、紅葉時の風景とはまた違った美しさがあり、髪型をかえるだけで変化を遂げる女性のような妖艶さがある。四季折々の壮観さと優美さが、人々を惹きつけてやまない由縁やもしれない。そんな京都という地で、織田信長が、家臣であった明智光秀に討たれたのは、あまりにも有名な話だ。ではなぜ本能寺の変が起きたのかー、つまり、明智光秀織田信長を裏切った理由は何だったのか。このことは、永遠の謎に包まれるわけだけれど、数多の説が考えられ、その中には、主従関係のあり方に対する意見の相違というものがある。

 

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 当時は戦国時代の真っ只中であり、家臣といえども有力家臣は、独立性が高く、有名な武将でさえも、多くの家臣を押さえつけるのは容易ではなかった。それは一時的に家臣になったとしても、虎視眈々と武勇をあげるために、主人を裏切ることさえも厭わなかった時代背景が影響していると言える。だからこそ、自分の子供と政略結婚をさせたり、領土を与えたりすることで、半ば強制的に運命を共にさせ、一度傘下に入れば、協力せざるをえない状況を作り上げたのだ。またそうした利害関係の構築こそが、この時代の主従関係のあり方であったと言える。

 

 しかしそんな最中にありながら、織田信長は、そうした時代の常識を打ち破り、家臣に対して、あくまで共通理念の擁護者として接するに留め、家臣に領土を与えて、一生そこを基点として従わせるのではなく、その領土の一時的な管理責任者にさせるという、将来的には配置転換も厭わない、現代の上司と部下という関係に近い形を形成した。もっと言えば、コンビ二のオーナー的な役割を担わせ、領土そのものの財産は、織田家のものであるいう考え方で家臣を支配した。これは当時における、一度与えられた領地は、その家臣のものとする共通認識を破壊する考え方であった。この方針は、明智光秀にも向けられ、長年苦労して平定し、母親の居住する地域から、一部領土を没収することを示唆し、その代わりに、出雲、石見という領地を占領することに成功すれば、そこの領土に住まわせると告げたのだ。信長からすれば、配下の土着化が進むことで、謀反を恐れたわけだけど、光秀にとっては、愛着ある土地から離れなければいけないこと、つまり国替えをせねばならず、これがまさに謀反の要因になったのではないかという説である。

 

 こうした政策は秀吉、家康に引き継がれ、徳川時代の三代目家光の参勤交代制度によって、より具現化された。親族を言わば人質として江戸に住まわせ、各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させることで、心情的にも、金銭的にも、謀反の目をつむ政策を実施した。このような主従関係における統治の問題はいつの時代にもつきもので、それは形を変えながら、人類が存続する限り続いていくものであろう。

 

  現代でも統治の関係で世間を賑わせている問題がある。その舞台は日産自動車で起きた。「カルロス・ゴーンが逮捕された」というニュースは、瞬く間に日本中を駆け巡った。筆者にとって何が衝撃的だったかと言えば、多額の報酬を受け取るゴーンが、その報酬を過少申告した疑いがあるという事実そのものではなく、「ゴーン・チルドレン」とさえ呼ばれた西川社長が、ゴーンに対して反旗を翻したことだった。なぜこのような内部告発が起きたのだろうと分析するためには、これまでの日産とルノーの関係を振り返らなければならない。

 

 1980年代、日産自動車は、すでに日本を代表する自動車会社の一つであったが、販売シェアを落とし、苦心していたとき、「90年代までに技術世界一を目指す」という901プロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトが功を奏し、数多くの名車を産み出しただけでなく、全車種を対象としたエンジン、サスペンションなどの設計目標と走行実験におけるハンドリング評価基準の大幅な底上げを実施し、技術の向上によって販売回復を目指すという目標を達成した。

 

 しかしバブルの崩壊という外部的要因によって、徐々に販売台数は下降線をたどり、さらに、もの作り産業は、環境保全の観点から、これまでの「作って販売すれば終わり」という概念から脱却することを求められ、多くのメーカー企業と同様に、地球環境対策に舵取りをしなければならなくなったことから、コストが増大し、収益性を押し下げた。こうしたリサイクル開発と推進に巨額の費用を投じなければならず、ついには、2兆円規模の有利子債務を抱えて、倒産寸前に陥ったのだ。そこで1999年、日産はルノーから6430億円の出資を受けるとともに、ゴーンらが経営陣に加わって再建を目指すことになった。もともとこの決定には、もの作り大国日本の国内で、大きな波紋を呼んだ。それは901プロジェクトなどで築き上げた保有する技術が、海外に流出するのではないかという大きな懸念であった。

 

 そんな最中、ゴーンによって、大規模なリストラ対策が推し進められ、多くの生産拠点の閉鎖、資産の売却が実施された。これがコストカッターの異名を取る理由であるが、こうした大工事によって、日産は全額借金を返済できただけでなく、世界に名だたる自動車メーカーへと劇的に復活を遂げた。しかしこのときの大改革により、大きな遺恨を残したことは言うまでもないだろう。ゴーンは、2016年、西川社長に日産の経営を任せたとき、絶対の信頼をおいていたとされる。それではなぜ、ゴーンが逮捕されたとき、西川に「一人に大きな権力を持たせたこと、そして長年実力者として君臨させてしまった組織体制を作り上げてしまったことこそが事件の原因である」とする記者会見を行わせてしまったのだろうか。しかもその権力の力こそが、西川を社長という地位まで押し上げたにも関わらずである。

 

 日産の業績が回復しているいま、日産の利益は、ルノーに吸い取られているという構図が続いていたこと、それによってフランス統治に対する不満が社内外から大きくなっていたことは、無関係とは言えないだろう。さらには、ルノーの株を15%持つ、大株主であるフランス政府が、日産とルノーを統合させて、国家的利益を優先させる形で、ルノーの経営を後押ししたいと考えるようになったことも誘引とされるかもしれない。「2022年までにルノーと日産の統合を進める」そんな噂とも真実とも取れるような密約が結ばれたとされることが、社内に広がったことは西川を焦らせたに違いない。そして、そのときには、西川は解任されるとしたことを聞きつけたのであらば、もう静観してはいられなかっただろう。会社の事情と個人の事情が複雑にからみ合いながら、この事件は起きたのかもしれない。

 

 西川の社内への表向きな作戦は、ルノー経営統合されることにより、日産自動車は、ルノーというフランスの会社になってしまう、そうなれば、またあの悪夢のリストラ改革が巻き起こる、さらには日産の根幹である技術が流失するー、今立ち上がらなければいつなんだとしたナショナリズムを奮い立たせることだったかもしれないが、もはや19年という協力体制を育んだ両者の長い歴史のなかで、生産拠点、部品の共通化は既に進んでおり、グローバルな連携体制も進んでる。あらゆる技術開発の連携も進んでおり、技術の流出は限定的だったに違いない。

 

 いずれにせよ、西川は内部告発を利用する形で、ゴーン追放に成功した。このときゴーンが、カエサルを思い出したか否かは不明だけど、腹心の部下に裏切られ、「西川、お前もか」と呟いたかもしれない。日産と西川の戦いは、フランス政府を巻き込んだ大きな行事になっているので、温かく見守りたいと思う。

 

  さて筆者は、会社における上司の部下との関係も、時代とともに大きく変わってきているように感じている。初めて就職した企業に、丁稚奉公し、年功序列に終身雇用といった従来の組織体系に依存するという関係は終焉を迎えようとしている。上司を「親父」、「おふくろ」と呼び、居酒屋で、プライベートの生き方まで互いに共有しながら働く。合併や倒産が当たり前になった現代では、そんな関係は薄れ、企業は自分の技能を高めるための一つのツールに過ぎず、自己実現を形成する場所であり、会社での上司と部下の関係も、よりクールに、そしてもっとシビアになってきている。

 

 上司のありかたも様々で、現場の声や問題をこと細かく理解し、それをさらに上層部に伝える優秀な上司もいれば、新たなレイヤーを作り、中間管理職として出世させたんだと嘯きながら、自分の配下として利用し、そこから泥臭い現場を管理させ、自分は上層部に報告をするだけという管理体制を築きあげている狡猾な上司もいるだろう。現場の人間にとっては、前者のほうが明らかに有能な上司であり、後者にあたることは、一生の不幸のように感じるかもしれない。ただ利害関係だけを考えると、上司にとって、現場を見るインセンティブはもはやなくなっていて、自分に価値ある情報を与えてくれる部下だけが重要であって、言うことを聞かないのであれば、切り捨てればいいだけであろう。いつの時代も現場ばかりが苦労するのは変わらないのだけど、中間管理職が一番の被害者だろう。上司からいつお払い箱になるかわからないー、責任ばっかり取らされて、口答えしてくる部下は、「いやぼくの仕事じゃないんで」とばかりに仕事を残して帰り、残った作業を深夜までこなしながら疲弊していく。

 

  「正しいことをしたいなら偉くなれ」踊る大捜査線で観かけたこの言葉が、「楽をしたいなら偉くなれ」そんな言葉に聞こえてきて、耳をほじってみたけれど、流れ出てきたのは、中耳炎にならんばかりの血だけであった。あー会社ってなんでこんなにメンドクサイんだろう。そんなことを思いながら、織田裕二の若き日のドラマを追いかけている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロボット開発が進む未来を想像しながら考えてみた

 いつの時代も人は夢を見て、そしてその夢を実現させるために努力してきた。鳥類の空中での優雅な飛行に夢焦がれ、ライト兄弟は、世界初の有人動力飛行に成功した。技術の進歩によって、人は未知の世界に足を踏み入れ、既存のシステムを壊し、新たなシステムを構築しながら社会に導入してきた。これはシュンペーターの言うところの「創造的破壊」と呼ばれるもので、経済サイクルにおける自然の摂理で、産業の新陳代謝には欠かせない。ここでふと思い出したのが、昔よく駅で見かけた改札鋏で、当時は駅員が、乗客の購入した切符を乗車駅で切り、一人一人確認をとっていた。スイカパスモ、はたまたスマホを使って改札機にかざすだけで通れることに慣れた若者には信じられないことだと思うけれど、現実に存在していたことだ。

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 この改札鋏は、もはや目にする機会がなくなって、人々はそれと同時に、いちいち切符を購入しなくても、または購入したとしても、いちいち駅員が切符を切るのを待たずして、素通りするかのように、改札を抜けられて、利便性が向上した。ただ鋏職人にとっては迷惑な話であって、世の中から需要がなくなり、職が失われたか、別のもの作りに従事するようになったに違いない。さらにいえば、業務の効率化によって、駅人の雇用も徐々に削減されたことだろう。

 

 「ドラえもんのび太のブリキの迷宮」は、そうした利便性の向上を追及しすぎた人類の行く末をちりばめながら、夢とロマンを人々に示している。藤子・F・不二雄の視点は、天性のもので、時代に潜む問題点を理解しながらも、その現実的な部分を覆い隠しながら、子供たちに夢を与えてきたー海底人、地底人、宇宙人、天上人など、まだ世界で発見されていない、そんな世界があることを子供たちに連想させる。子供の頃は、そんな夢の部分がまぶしくて夢中になっていたが、年を取ってから観ると、また違う視点が浮かび上がる。年を取るということは、物事に動じなくなる一方で、やたらと世の中の負の部分が目につくのが、たまに嫌になる。さて話を戻すと、その違う視点というのは、現代の抱える負の部分を、ドラえもんが提示してくれているのではないかということだ。

 

 ちょっとここで内容について紹介すると、こんな感じだ。ある夜中、酔っ払って寝ぼけたのび太のパパが、スキーと海水浴が同時に楽しめるというブリキンホテルに部屋を予約するところから物語は始まる。いつも友達は、夏休みや春休みなどの長期休暇に家族旅行に行くのに、自分だけが何の予定もないことに嫌気がさしていたのび太であったが、その話を聞いたことで大喜びし、みんなにも自慢してしまう。それがパパの夢だと知り、すっかり落胆するが、ある日、部屋にトランクケースが置かれていた。それはブリキのおもちゃの島であるブリキン島と地球をつなぐ異次元空間装置であった。

 

 ブリキン島にあるホテルにつくと、ブリキで作られた心を持ったロボットに手厚くもてなされ、ドラえもんのび太は島で遊んでいたが、やがてのび太は、いつも以上にわがままを言い出す。ドラえもんは、いつも自分に頼ってばかりいるのび太に「「自分では何もできないダメ人間になってしまうぞ」と叱責しながらも、渋々ひみつ道具をだして説明を始めるが、のび太は、それをろくに聞かず、使いだしてしまう。あきれ果てたドラえもんは「未来に変える」と叫ぶものの、しばらくしてのび太の捜索を開始する。しかし、突然現れた謎の飛行船から電撃を受けて、そのままさらわれてしまう。それは、ホテルで出会ったブリキのロボットとは敵対勢力である、ナポギストラー博士率いるロボット集団であった。

 

 その後のび太は、ジャイアンスネ夫、しずかと共に再びブリキン島にやってきたが、突如ブリキンホテルが、ロボット集団から襲撃をうける。ジャイアンの活躍で追い払うことができたが、そこでブリキンホテルの主である少年サピオが、のび太の前に現れた。彼はロボット集団と同じく、チャモチャ星からやってきた宇宙人で、ドラえもんが彼らに連れ去られたことを告げ、のび太達にドラえもんを助けるため、そしてチャモチャ星の危機を救うため、人間に代わりチャモチャ星を支配するナポギストラー率いるロボット集団に戦いを挑むのであった。チャモチャ星に向かう途中、サピオは、星がロボット集団に乗っ取られるまでの経緯を説明した。チャモチャ星人は、知性の優れた民族で、生活が楽になるための道具をドンドン発明し、豊かになっていった。ついには発明でさえも面倒になり、発明を任せるために、知性と心を持つAIロボットであるナポギストラー博士を作ったのだ。そこでナポギストラーは、人間が楽に暮らせるための道具を発明し続けたが、その裏では、人間が歩くことさえも必要なくなる道具まで発明し、人間の身体能力を退化させ、星を支配することを目論んでいたのだ。

 

 これは人類とロボットの主従関係が逆転した社会を描いた作品で、便利な道具に頼り切った人類の行く末を描くことで、暗にテクノロジーの行き過ぎた世界に否定的な見解を示しているが、そういう意味では、人類とAIの知性の戦いを描いた作品と言えるかもしれない。似たようなコンセプトの作品は数多く輩出されているが、実写版のものでは、ウィルスミス主演の「アイ,ロボット」もその発想に近い。最後はロボットが知性を持ちすぎることで、人間を凌駕し、主従関係が逆転するというもので、人類に警鐘を促すものになっている。

 

 人間の知性が、どこの分野までAIによって駆逐されてしまうのか、それは、これからの大きなテーマであろう。これは筆者がマジョリティなのか、マイノリティなのかは分からないけれど、どっちかと言えば、技術進歩からの恩恵よりも、その後の副作用の方を恐れている。ふだん筆者はあまりの怖さに布団にもぐり込んで、震えているけれど、それでは状況は何も変わらないから、しょうがないからブログを書いているわけだけど、これから先、待ったなしにAIが人類の営みを豊かにしながら、生活に入り込んでくることだろう。その一方で、AIが代替することによって、世の中から姿を消す職業は、数多くでてくるに違いない。鋏職人のように。

 

 ある意味でAIの出現によって、労働生産性は莫大に向上するから、経済学的見地からは、何の問題もないのかもしれない。ただそれによって世界の失業率は大幅にあがることは間違いない。それはなぜか。企業の視点で考えてみれば、何かを産み出すためのコストは安ければ安いほどいいわけだから、人間に支払う賃金が、機械を使うよりも安いときにだけ人を雇用するインセンティブが生じる。それは大きな社会不安を巻き起こし、さらにそうした社会不安は、教育という分野にまで負の影を落とすかもしれない。たとえ高技能教育を受けても、その先に良い就職がないのであれば、所得の低い家庭では、高い教育を受けさせるインセンティブはなくなる。そうした負の連鎖によって、世の中の犯罪率もあがるやもしれない。もはやAIは、産業革命以降の機械化とは比較にならないほどの知性と技能を有しているのだ。農村の過剰労働力を工業労働者に、技術的失業者をサービス労働者に転換した昔のような創造的破壊では済まないだろう。

 

 筆者は、ポップコーン片手にドラえもんを観ながら、タイムマシーンで未来に行き、当たり馬券の情報を得た後に戻ってきて、その情報を使って大金持ちになりたいーそんなどうしようもない煩悩を抱えながらテクノロジーの発展を楽しみに待っていたけれど、この作品を再度観ることで、現実に立ち戻った。さらに考えをめぐらせると、技術の進歩は、男女の関係も希薄にしているように思えてならない。昭和の人間であれば、固定電話で好意を持った相手の家に電話するものの、その家の親が電話口に出ると、何も言わずに電話を切るといった苦い経験を持った人もいるやもしれない。それが携帯になると、簡単に、そして確実に特定の相手とコンタクトが可能になり、スマホ世代になると、もはや電話なんてせずとも、LINE交換をすることによって、タイムリーに関係が築けてしまうのだ。そんなプライベート空間の進歩は、新たな人間関係の作成を容易にさせただけでなく、「いつでも気軽に作れる」という余裕を生み出すことで、既存の関係を簡単に消滅させることも促してしまった。現代の男女は、より慎重に、より狡猾になっているやもしれない。(全然しらないけど)

 

 筆者はいま、携帯電話もなければ、テレビもない、そんな素晴らしく未発達で、非効率な社会に戻りたいと願っている。仕事は溢れ、心優しい男女が一杯のそんな社会に。そんなことばかり考えながら布団に入ろうと思う。

 

 朝起きたらドラえもんがいないかなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「セントオブウーマン/夢の香り」を見て思ったこと

 日々生活していると、岐路に差し掛かることがよくある。それは大きいことから小さいことまで様々で、トレードオフの関係だ。例えばA社とB社に内定をもらっていて、結局A社に就職したけれど、数年後にA社が倒産してしまい、B社を選択しなかったことで人生が大きく変わってしまった人もいるかもしれない。ただそれが、ハッピーエンドになるのか、バッドエンドになるのかは、また次の選択の結果次第であって、その後起業して、大成功すれば、それは正しい選択であったと思えるのだろうし、そのまま定職につけることができなくなってしまったのであれば、悔やまれる選択をしたと感じるのかもしれない。もちろんその感じ方は、その人次第であるわけだけれど。もっと大きな視点で考えると、世界中のあらゆるところで、ときには国家でさえも岐路に直面し、選択を迫られている。

 

 イギリス議会は、欧州連合との間で合意したEU離脱案に反対票を投じて否決した。しかも賛成202票、反対432票という歴史的大差であった。メイ首相にとって頭を抱える事態になったわけであるけれど、「合意なき離脱」になる可能性も強まっていることから、深刻な局面と言える。

 

 そもそも遡って見ていくと、イギリスが、2016年6月23日に行った国民投票で、EUからの離脱を決めたことから話は始まる。事前に各国の多くの指導者が残留を求め、IMF世界銀行が、離脱することによる大きな経済的打撃を警告するなかで、この決定はなされたため、世界中のメディアが、このニュースを大きな驚きとして大々的に報じたことは記憶に新しい。

 

 ではなぜこの決定がなされたのか。もちろん、多くの個々人の思惑が反映される国民投票の結果を正確に分析することは不可能だけれど、背景にあるのは、一般国民の鬱屈した感情かもしれない。

 

 国家単位の大きなモノにとって、この問題の解答は非常にシンプルなもので、それは、残留が正解、離脱が不正解といった二者択一の形で、岐路における選択を悩ますものは何もなかったはずだ。だけど、一般市民という小さなモノにとって、物事はそう単純な話ではなかったのだ。

 

 テクノロジーの発展や、それに伴うグローバリゼーションによって、単純労働は、賃金コストの安価な国に移転され、それに従事する国の人々は、他国に仕事が奪われる恐怖に慄いている。金融危機、欧州債務危機と続く経済活動の不透明さによって、生活は逼迫し、さらに、少しでも生活を豊かにしたいと願う移民たちで国は溢れ、その恐怖はより現実的で、そこかしこに閉塞感が蔓延していた。政府に任せていても、一向に目の前の生活はよくならないばかりか、不安は解消されず、マグマのように国民の不平不満が湧き上がっていたまさにそのときに国民投票という岐路が用意されたのだ。

 

 時の首相である、キャメロンは、一般国民のそうした不満を反映した右翼政党の台頭に対し、焦りと苛立ちを感じ、国民投票の実施を求める動議を提出した。この時点でキャメロンは、まだ楽観的だったに違いない。つまり、「教養ある国民」がまさかEU離脱に賛成票を投じるはずはない、もっといえば、離脱に反対する結果を見ることで、国家が一枚岩となって「正しい選択」をすることで、今後の大きな問題を一丸となって、共に乗り越えることができるはずだと想像していたやもしれない。そして「物事を決められない」国民性から脱却し、新たな時代を切り開くためにも、国民投票は不可避であったのだろう。

 

 しかし、ここでキャメロンにとって不幸だったことは、100万にも及ぶシリア難民の欧州諸国への受け入れ希望と、パリ同時多発テロなどによる過激派組織の活動が、欧州内部からナショナリズムを増殖させたことだろう。さらに、EU内のドイツ、フランス、イギリスの力関係の複雑さもあいまって、事態はより泥沼化した。第二次世界大戦後、ドイツの経済優位性ばかりが目立ち、欧州諸外国の力の弱さを利用する形で、ユーロ通貨安による輸出産業の発展という恩恵をふんだんに活用できたフランス、イギリスではあったが、その影響力はドイツに凌駕され、そもそも敗戦国であったドイツの力を押さえ込むことを目的に始まった、EUの存在意義に疑問符がついた。

 

 キャメロン首相は、この国民投票の結果を受けて退任し、今度はメイ首相が、離脱という「正解」にむけて舵をきりだした。このときの一般市民の感情は、実はもっとシンプルだったのかもしれない。自分たちの職の安定と生活の安全を「脅かす」移民を排除し、経済効果に関しては、離脱後も単一市場から変わらず受けるはずだという思惑が、結果に反映された。しかしながら、EU諸国としては、当然ながら、人、モノ、金、サービスといった4つの移動に関して、関税をかけるなどの一切の妥協は許さないと名言しており、政府が国民に対して、離脱によるリスクに関する事前説明が不十分だったことを浮き彫りにした。

 

 さて、話が長くなってしまったが、「セントオブウーマン/夢の香り」についてであった。本題に入る前に、簡単に内容を説明しておくと、元軍隊出身で盲目になった人生に悲観するスレードと、奨学金で名門校であるベアード高校に入学した苦学生チャーリーとの交流を描くヒューマンドラマである。

 

  なんといってもこの映画の最大の魅力は、物語の最後にあるスレードが行うスピーチで、このスピーチにいくまでには、色々と経緯がある。アメリカで重要な行事の一つである感謝祭(サンクスギビィング)が近づくある日、チャーリーは、3名の同級生よる校長に対する妬みから端を発した、愛車ジャガーに悪戯を準備するところを目撃した。次の日、その悪戯が幸か不幸か成功し、悪戯に激怒した校長から、目撃者と思われるチャーリーと、悪戯をした同級生の仲間であるジョージが校長室に呼び出され、チャーリーに対して、犯人たちの名前を明かすならハーバード大学への推薦、断れば退学という二者択一を迫り、感謝祭の休暇後の公開諮問委員会で回答を要求する。

 

 さて予定通り、全校生徒による公開懲罰委員会の試練がはじまると、証言台には、ジョージと父親、そして反対側にチャーリーが座らせられた。チャーリーが緊張して開始のときを待っていると、そこにスレードが、親の代理と称してやってきてチャーリーの隣に腰掛けた。集会がはじまると、ジョージは保身に走り、あやふやな証言で逃げようとしたばかりではなく、確信性は与えなかったものの、仲間の名前まで告げたのだ。チャーリは、ジョージの証言が正しいことを証明することを求められたが、証言そのものを拒否し、不良行為をしたとはいえ、同じ学校で学ぶ仲間を売ることは決してしなかった。校長はそれを虚偽の証言として、同席する懲戒委員会に、チャーリーの退学を審議するよう要求する。そうした最中、突然、「彼は密告者にはならなかった」とするスレードの声が会場に響きわたる。スレードは立ち上がり、親の力に頼るばかりではなく、自分が危機に直面すれば、平気で仲間を売るジョージ、そしてそんなジョージを正直者、チャーリーを嘘つきの不誠実者とする校長を、厳しい言葉でこきおろす一方で、将来を約束するという甘い言葉に一切乗らずに友を守ったチャーリーこそ、高潔な魂を持っていて、それこそがリーダーの持つべき資質であると熱弁した。

 

 集会は盛大な拍手に包まれると共に、懲戒委員会は、審議を即決し、犯人の生徒たちの処分とチャーリの解放を宣言したのだ。

 少しスピーチを引用しておくと、 

「...I have come to the crossroads in my days, and I have always known the right path, always, without exception, I knew. but I never took it. You know why ? because it's too damn hard. Now, here is Charlie, he's come to the crossroads and he's chosen a path, it's the right path. It's a path made of principle that leads to the character. Let him continue on his journey. You hold the boy's future in your hands, Comitte. It's valuable future. Believe me, Don't destry it,  Protect it, Embrace it...

(私も何度か人生の岐路に立つことがあった。そしてどんな例外もなく、いつも正しい道を判断できた。しかしその道をいくことができなかった。あまりにも困難な道だったからだ。チャーリーもまさに岐路に直面した。そして彼は正しい道を選んだ。真の人間を形成する信念の道だ。彼の人生の旅を続けさせてやろう。彼の未来は、君ら委員会の手の中にある。価値ある未来だ。私が保証する。潰さずに守ってやってくれ。愛情をもって)」  

 

 ちょっと映画ということもあって、出来すぎている所はあって、お涙頂戴になっているわけだけれど、人生を左右する選択や決断は、あらゆるところに溢れている。人生の選択は非常に難しいもので、「正しい」ことが常に人生を豊かにするとは限らないし、いつも「正しい結果」になるとも限らない。そして、世の中の有識者や、はたまた国家でさえも、必ずしも「正しい選択」ができるとは言えない。

 

 そんななかで、筆者は日々社内政治に翻弄されながら、イギリス議会が決定するような重要事項には関われないばかりか、チャーリーのような高潔な選択もできない日常を送っている。給料日前のいま、鮭弁当にして200円節約しようか、このブログの初投稿を祝ってステーキ弁当にしようか、そんな人生の大きな岐路に迫られながら、筆をおきたい。

  人生の岐路にたつとはそういうことなのだとおもう。