プライムタイムズ

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果たしてグローバル人材になることは正しいことなのだろうか

 もうだいぶ前の話になるけれど、長野冬季オリンピックで、スピードスケート男子500メートルにおいて、清水宏保がオリンピック新記録を出して、日本のスケート競技至上、初めて金メダルを獲得したことは有名な話だ。当時、清水をはじめ、堀井学、そしてカナダのウォザー・スプーンが、その年のワールドカップで表彰台を独占していたことから、「3強」と呼ばれており、さらにはその記録が拮抗していたため、誰が優勝してもおかしくない状況であったことから、清水の優勝が決まった瞬間、日本中が歓喜に包まれた。結果は、清水が金メダル、ウォザー・スプーンが銀メダル、ケビン・オーバーランドが銅メダル、そして堀井学は13位に沈んだ。

 

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 堀井の惨敗は、清水の金メダルの影で、大きな驚きを持って各メディアで取り上げられた。なせ堀井は、優勝候補と言われながら、ここまでの大敗を喫してしまったのだろうか。実はこれにはいくつかの理由が隠されている。この時期、スピードスケート競技は、他の競技とは比較にならないほど、環境、道具、技術において、急激な変化が訪れていた。こうした状況の中、1人の日本人は、その変化に対応し、表彰台の頂きに立つことができた一方で、もう1人の世界的トップ選手は、無残に散った。そして堀井の夢は、4年後も叶わなかったのである。 

 

 まず競技をめぐる環境の変化とは、スケートリンクのことである。ときに雨や雪が降り、強風が吹くような屋外の天然リンクから、屋内施設にその競技場所が移された。屋根と壁によって天候の条件は関係なくなり、さらに一定の人数が滑るごとに製氷車がリンクを極限まで磨きあげる仕組みが導入された。また製氷技術の進歩によって、人工のリンクは極度の高速化を実現したのだ。こうした環境の整備によって、屋外での記録は瞬く間に塗り替えられ、当然のことながら、世界最高記録は、屋内リンクからしか誕生しなくなった。

 

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  次に道具の変化は、1998年に開催された長野五輪直前に起き、選手に大きな戸惑いを与えた。それはスラップスケートの誕生と、その使用が競技団体によって公式に認められたことだった。通常のスケート靴は、ブレードと靴が完全に固定され、滑っていても形状に変化はないが、スラップスケートとは、ブレードと靴に接する部分が2点あり、一方の足先部分は固定されているものの、もう一方が接合されていない特殊な靴のことをいう。従来のノーマルタイプと比較して、スラップスケートは、体重や姿勢の変化に柔軟に対応できるため、バランスが取りづらくなったものの、よりスピードが出しやすい仕組みになっている。これはスピードスケート競技界にとって、革命的な道具だった。スピードスケートは、スラップスケートの導入によって、新たな時代を迎えたのだ。いままで足首を固定して滑っていたものが、足首を自由に使えるため、より長い時間氷を押さえつけることができ、氷上をそれまでより早く移動できるようになったのだ。

 

 技術の変化は、まさにスラップスケートを活用するための技術の変化だ。筆者も含めて素人には理解できない部分もあるが、ゼロコンマ数秒のタイムを競う選手たちにとって、これまでのノーマル靴と滑り方が大きく変わるため、その対応がいかに重要だったかは想像に難くない。

 

  結果として、高速リンクとスラップスケート、そしてそれらの技術にいち早く対応した清水が金メダル、ウォザー・スプーンが銀メダル、対応の遅れた堀井が惨敗したのも納得できる。筆者は、当時のテレビの特集で、新しい靴に挑む清水、旧式靴を使って、滑る技術を最大限まで高めることを選択した堀井という対立構造を描いた番組を覚えている。そのときは当然ながら、どちらの選択が正しいのか、わからなかった。もっといえば、新しい靴に転倒を繰り返し、四苦八苦しながら奮闘する清水に分が悪いとさえ思ったものだ。職人肌の堀井は、とにかく自分の技術を極めたかったのだ。道具だけで全てが決まってたまるかー、という反骨心もあったのかもしれない。走る度に研ぎ澄まされていく感覚、足の指先まで神経を張り巡らせ、正確に氷に伝える。そんな世界で戦っていた堀井は、ノーマルスケートを捨て去ることを躊躇した。だがその躊躇が決定的な敗因となったのだった。

 

 堀井の苦悩は、長野の前のレースでその表情に表れていた。レースをしても勝てない日々が続き、科学的にも、自分の感覚的にも、スラップスケートのほうが全ての面で上回ることがわかったのだろう。結局、堀井もスラップスケートを使用することを決断したが、すでに他の選手が死に物狂いで技術を習得して、平均タイムが切りあがっていく中で、その決断はあまりにも遅すぎた。堀井は復活をかけた、次のソルトレイク五輪でも、500メートルに続き、1000メートルでも惨敗し、ついにその後メダルを掴むことができずに競技人生を終えた。

 

 

 近年多くの大学で、グローバル化を意識して、国際と名のつく学部が数多く創設されている。そんな中、千葉大学は、2020年度以降、入学する全ての学生を対象に、在学中に海外留学を実施することを原則として必修にすることを決めた。少子化が加速していることを背景として、海外で活躍できるグローバル人材の育成に力を入れていることを強調するかのように、このプロジェクトは始まったのだ。国立大学も、学生の囲い込みに必死で、常に有用な策を探している。この制度は国立の総合大学では、初めての取組であり、大きな注目を集めている。グローバリゼーションによって、世界が小さくなり、生産年齢人口が減少している日本で、将来の職場探しとして海外に目を向ける動きが起きることは、特段驚く話ではなく、千葉大学に続く学校は、これからますます出てくるだろう。

 

 この計画が実現すれば、23年度以降は約1万人弱の学部学生と、約3500人の大学院生が授業の必修科目として、1週間から2ヶ月程度、海外に留学することになるようだ。1週間程度でどれほど価値があるかどうかは、その人の能力次第であるが、2ヶ月もあれば、海外で生活するのに困らないほどの十分な語学力が得られるだろう。

 

 もともと千葉大は、国際教育について積極的で、16年4月に開設された国際教養学部では、卒業までに少なくとも1回の留学をすでに義務付けていた。留学しやすい環境整備を推進することで、華々しい就職先をアピールし、学生を引き込もうとする戦略なのだろう。17年度にはすでに約800人の学生を海外に送り出すことに成功しており、全国の国立大学の中でも上位の実績を誇っている。さらに驚くべきは、留学先の授業料は、大学側が負担するほか、渡航費や宿泊費用なども、一定の条件が整えば、学内外の奨学金制度を活用することが可能で、学生の負担は少なく抑えられる。ただ海外留学の必修化により、大学の財政を圧迫する恐れがあるため、20年度以降の授業料のアップも同時に検討しているようだ。先日会見した学長は、「国際教養学部を中心に成果をあげているグローバル人材育成戦略をさらに拡大したい、教職員一丸となって不退転の決意で取り組む」と語ったことからも、並々ならぬ決意を伺いしれる。

 

 かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が流行した高度経済成長期に、日本の大企業は、こぞって海外に進出し、海外の企業を買い漁ったり、支店を開設したりすることで、その存在感を世界に示した。そして日本の職員が、その企業の海外支店で働くことは栄転でもあり、キャリアアップにつながっていた。商社や銀行に勤める社員は、寝る間も惜しんで働き、優秀な成績を残した誇りを胸に、海外で大きな家を借りて、日本で勤務する社員が羨む生活を送っていた。ところが、バブルの崩壊とともに、そして世界経済の変化から、日本企業はその力を失い、海外支店ばかりか、本社も倒産することさえ起きる時代になった。現代は、国をあげた「グローバル人材育成」の掛け声のもと、海外企業の現地スタッフとして働けるような能力を得られるように、政府・大学が一丸となって若者を教育している。

 

 我々は、長きにわたって閉塞感を抱えていて、バブル時代のような楽園を夢みながら生活してきた。ここではないかと見つけた先が、海外の現地スタッフであった。たしかに海外で働けば、職はたくさんあるが、昔のように、その場所は日本企業の海外支店ではないため、片道切符で現地に赴かなければならないうえに、解雇規制のない海外では雇用も安定しない。さらに肝心の暮らしは、現地の給料で支給されるため、裕福とは到底言えるようなものではないかもしれない。「語学力を習得して、海外に飛び出せ」と無責任に叫ぶ大人は、海外が楽園のように感じているのかもしれないが、そこに行ってみても、暮らしはよくないばかりか、解雇されてしまうかもしれない。さらに途中で帰国することになったとしても、いまはもはや「海外で働いていた」という職歴は、それほど目新しいものではなくて、転職のときに実はあまり価値がない。

 

 もはや我々は、この低成長時代に適した、新しい希望のツールを見つけ出さなければいけない岐路に立っている。筆者はまだ、グローバル人材を目指すことが、清水になって、頑なに日本に残ることを選択することが堀井になるのか、いまのところその答えは見えていない。

 

 いったい楽園はどこにあるのだろう。疑問は深まるばかりだ。